第十章 炎と燃焼との融合に関する検証(16頌)
第一頌
若しも或る点火が、現実に行われるならば、
炎は行為をする人と、行為に関係して居る事とが、一つに重なつた状態を作り出す。
若しもそうで無い場合には,炎が点火を離れた状態で、
状態が炎を離れた侭で、動き出す事が可能である。
第二頌
恒常的な状態で正に点火され続けて居るものは、恐らく、
嘗て点火された事実の無かつた事が、理屈に適つて居る。
再度点火される事は無益であるし、
やはり何の目的も持たない事が,現実で有ろう。
第三頌
何処か他の場所で,気付かれ無い状態が無視されて居るのであろう。
恐らく点火されて居ない状態であると考える事が、合理的である。
この場合も、再度始める事が無益な状態なので有ろう。
始めから燃え盛つて居る状態は、強制的に継続されるので有る。
第四頌
その様な状況の中では、恐らく火が燃え続けて居るので有ろう。
その場合には、点火が継続されて居ると云える。
どの様な状況で,点火が燃焼の事実に変わるので有ろう。
其の場合には非常に大量の物が、この場所に於けるこれとして有るので有ろう。
第五頌
若しもそうで無ければ、それが達成されると云う事は無く,達成され無い状態として残る。
その場合には、燃焼させる事が出来ないから、やはり完全に燃焼させる事が不可能である。
火がまだ消されて居ないと云う事は、火がまだ燃え尽きて居ない事を意味するから、
火がまだ自分自身の文法上の性別を、変えて居ないと云う事が云える。
第六頌
其れとは違つて、やはり燃焼から離れた状態が炎である。
その場合に、中性名詞である点火が、点火から離れたがつて居る。
しかし女性は男性に出会いたがつて居る。
その様な場合には、男性と女性とが共に、其処に有る。
第七頌
亦別の言い方をすれば、正に燃焼と云う観念を離れた所に、炎が有る。
燃焼を望み通り希望に沿つて掴む事が出来る様に成る。
炎と燃焼とが完全に一体化した処に、
一つ一つのものを離れ、物事を見る事そのものを離れる事に依つて、現実が見えて来る。
第八頌
何かを良く見る人は、正に現実の人であり、現実の人は正に良く聞く人でも有る。
其の場合、現実の人とは、正に他人に対して何かを発表する人の事であり、
一つ一つの事柄に付いて事前に存在する可能性が有る。
その様な方法で、具体的な場所に於ける具体的なものは、他のものと混同される事が無い。
第九頌
他のものを良く見る人も、他のものを良く聞く人も、
其の場合には、やはり他のものに就いても発表出来る人で有る。
恐らく現実的に物事を見る事の出来る人が実在し、現実的に物事を聞く事の出来る人が実在するので有ろう。
其の様な人々が多数存在して居るで有ろうと云う事実は、正に個々の人間が多数存在して居ると云う事実を通して、知る事が出来る。
第十頌
見る事、聞くこと、その他。
知識の限界その他も、正に眼の前に有る。
物事を探し求める様々の行為が、その様な多数の存在や具体的な事物と一緒に存在し、
特に様々の存在に帰属して居る場合には、認識の対象と成る事が難しい。
第十一頌
見る事、聞くこと、その他。
知識の限界その他も、正に眼の前に有る。
そしてその様な状況の中では、現実は全く認識の対象とは成ら無い。
知識の限界が、正に此の場所に於けるこれとして、眼の前に有るだけの事である。
第十二頌
何かはつきりし無いものが前方に向つて、物事を見る等の感受作用に従属して生まれて居る。
現在の瞬間に直属した状態が、正に直立して侭で上方に向つて具体的に積み上げられて居る。
実在して居るとか、実在して居ないとかと云う状態は,認識する事が出来ない。
其の具体的な場所に於ける空虚さは、頭の中で作り出されたものの様に思われる。
とは他人の云う事を,良く聞く人の事である。
其の様な場合、現実とは正に外の人に対して、何かを発表する事で有り、
若しも或る点火が、現実に行われるならば、
炎は行為をする人と、行為に関係して居る事とが、一つに重なつた状態を作り出す。
若しもそうで無い場合には,炎が点火を離れた状態で、
状態が炎を離れた侭で、動き出す事が可能である。
第二頌
恒常的な状態で正に点火され続けて居るものは、恐らく、
嘗て点火された事実の無かつた事が、理屈に適つて居る。
再度点火される事は無益であるし、
やはり何の目的も持たない事が,現実で有ろう。
第三頌
何処か他の場所で,気付かれ無い状態が無視されて居るのであろう。
恐らく点火されて居ない状態であると考える事が、合理的である。
この場合も、再度始める事が無益な状態なので有ろう。
始めから燃え盛つて居る状態は、強制的に継続されるので有る。
第四頌
その様な状況の中では、恐らく火が燃え続けて居るので有ろう。
その場合には、点火が継続されて居ると云える。
どの様な状況で,点火が燃焼の事実に変わるので有ろう。
其の場合には非常に大量の物が、この場所に於けるこれとして有るので有ろう。
第五頌
若しもそうで無ければ、それが達成されると云う事は無く,達成され無い状態として残る。
その場合には、燃焼させる事が出来ないから、やはり完全に燃焼させる事が不可能である。
火がまだ消されて居ないと云う事は、火がまだ燃え尽きて居ない事を意味するから、
火がまだ自分自身の文法上の性別を、変えて居ないと云う事が云える。
第六頌
其れとは違つて、やはり燃焼から離れた状態が炎である。
その場合に、中性名詞である点火が、点火から離れたがつて居る。
しかし女性は男性に出会いたがつて居る。
その様な場合には、男性と女性とが共に、其処に有る。
第七頌
亦別の言い方をすれば、正に燃焼と云う観念を離れた所に、炎が有る。
燃焼を望み通り希望に沿つて掴む事が出来る様に成る。
炎と燃焼とが完全に一体化した処に、
一つ一つのものを離れ、物事を見る事そのものを離れる事に依つて、現実が見えて来る。
第八頌
何かを良く見る人は、正に現実の人であり、現実の人は正に良く聞く人でも有る。
其の場合、現実の人とは、正に他人に対して何かを発表する人の事であり、
一つ一つの事柄に付いて事前に存在する可能性が有る。
その様な方法で、具体的な場所に於ける具体的なものは、他のものと混同される事が無い。
第九頌
他のものを良く見る人も、他のものを良く聞く人も、
其の場合には、やはり他のものに就いても発表出来る人で有る。
恐らく現実的に物事を見る事の出来る人が実在し、現実的に物事を聞く事の出来る人が実在するので有ろう。
其の様な人々が多数存在して居るで有ろうと云う事実は、正に個々の人間が多数存在して居ると云う事実を通して、知る事が出来る。
第十頌
見る事、聞くこと、その他。
知識の限界その他も、正に眼の前に有る。
物事を探し求める様々の行為が、その様な多数の存在や具体的な事物と一緒に存在し、
特に様々の存在に帰属して居る場合には、認識の対象と成る事が難しい。
第十一頌
見る事、聞くこと、その他。
知識の限界その他も、正に眼の前に有る。
そしてその様な状況の中では、現実は全く認識の対象とは成ら無い。
知識の限界が、正に此の場所に於けるこれとして、眼の前に有るだけの事である。
第十二頌
何かはつきりし無いものが前方に向つて、物事を見る等の感受作用に従属して生まれて居る。
現在の瞬間に直属した状態が、正に直立して侭で上方に向つて具体的に積み上げられて居る。
実在して居るとか、実在して居ないとかと云う状態は,認識する事が出来ない。
其の具体的な場所に於ける空虚さは、頭の中で作り出されたものの様に思われる。
とは他人の云う事を,良く聞く人の事である。
其の様な場合、現実とは正に外の人に対して、何かを発表する事で有り、
0 Comments:
コメントを投稿
<< Home