2010年5月9日日曜日

第十五章 主観的な存在に関する検証(11頌)

第一頌

綜合的な存在は、主観的な存在には包含されて居ない。

抽象的な思索への没入は、明らかに様々の理性の働きである。

理性は明らかに,綜合的な存在である。

主観的な様々の存在は、人為的に作られた可能性が有る。


第二頌

主観的な存在は、人為的に作られたものであると云われて居る。

しかしもう一度、全く同じものの存在を期待する事が、どうして出来よう。

その様に人為的で無い事が、主観的な存在の特徴で有るから、

別の地域では全く無関心の対象と成る事が事実である。


第三頌

一体何処に、主観的な存在に含まれて居ない地域が有り得よう。

将来に於いては、客観的な存在と呼ばれるものの存在も、期待される。

主観的な存在は、客観的な存在に内包されて居る。

何故ならば、客観的な存在が、既に議論の対象となつて居るから。


第四頌

主観的な存在と客観的な存在との両方に関連して、

存在が何処かで、もう一度動く。

主観的な存在と客観的な存在との両方に於いて、実際に起こる。

何故ならば、存在が既に設定されて居るから。


第五頌

存在する世界の中で、まだ何も完成されて居ない場合には、

存在して居ないと云う事実さえ、まだ全く達成されて居ない。

存在する世界に帰属して居ると云う事は、存在して居ないと云う事とは別であるから、

未だ存在して居ないと云う事は、是から生まれると云う事を意味する。


第六頌

自分が存在して居るか、他人が存在して居るかと云う問題は、

単に存在して居るか、存在して居ないかだけの問題と同じである。

眼の良く見える人々と,眼の良く見えない人々に関連して、

釈尊は、現実の有り方を良く教育する事の出来る教育者であつた。


第七頌

カーテイヤーヤナは教訓的であり、

実際に実在して居るとか、実在して居ないとかと云う二つの議論に対しては、批判的であつた。

明確な否定が賞賛に値いする特徴を持つて居り、

存在するとか存在しないとかと云う問題に関しては、或る場合には賞賛の対象となり,或る場合には無評価の対象と成つた。


第八頌

若しも現在に於ける現実の有り方が、本来の自然の形式であるとするならば、

恐らく現在の実状も存在し無いで有ろうし、現実に今有るものとは別のものが有るで有ろう。

本来の実情とは違う別の状態が存在するで有ろう。

何故ならば実際には、何も現れて来ないので有るから。


第九頌

本来の実情からすれば、一体何が真実でないと云えるで有ろう。

恐らく普通の状態とは違つた状態が,存在して居る事で有ろう。

本来の実情からすれば、一体何が真実であると云えるで有ろう。

恐らく普通の状態とは違つた状態が,存在して居る事で有ろう。


第十頌

恐らく永遠の保持と云う事が実際には有るので有ろうし、

展示から切り離すと云う事も、実際には無いので有ろう。

その様な事情から、実在する場合と実在し無い場合と両方が有り、

鋭い切り口をまだ得て居ない場合も有れば、物事が一切良く見えて居る場合も有る。


第十一頌

主観的な考え方に依存して、例の容れ物と云う理解の仕方が実在する。

具体的な事実では無く、実在するものでも無いけれども、永遠に存在するものとして考え続けられて居る。

存在して居ないと考えられる以前から、既に現時点に於いて実在して居ない。

実在するかの様に語られる事は、架空の幻想で有る。