第十八章 霊魂に関する検証(12頌)
第一頌
霊魂が様々の集合体の一部として,存在して居る場合には、
霊魂が上昇したり、死滅したり、場所を占拠したりする事が、有る筈である。
しかし霊魂が様々の集合体とは別個の存在で有るとするならば、
霊魂には様々の集合体とは別の特徴が有る筈である。
第二頌
矢張り霊魂と一緒にその人自身も動く。
霊魂に取つて、一体何処に将来の存在が有り得よう。
全ての俗世間的な関係から自由であると云う事は、
静寂で有ると云う状態からも抜け出して、自分自身からも、自分自身以外からも、抜け出す事に成らざるを得ない。
第三頌
全ての俗世間的な関係からも自由で有り,利己主義からも自由で有ること、
其れ等は正に霊魂に取つて現実そのもので在り、認識の対象とは成らない。
利己的で無い事も、利己主義から自由で有る事も、
其れ等は眼に見える場合も有れば、眼に見えない場合も有る。
第四頌
「私の」と云う言葉とか、「私」と云う言葉とかは、使い古された言葉では有るけれども、
外側に向かつて自分自身そのものを提供するのと、正に同じ事で有り、
手控える事を自分自身の為に実行する事であり、
その様にして具体的な領地を気にし無くなる事が、具体的に領地を持つ事に繋がる。
第五頌
行為に関連して苦しむ事が、霊魂の為に住居を作り上げ、
行為と苦しみとが、絶えず入れ替わる。
様々の事物が拡張を遂げる事に依つて霊魂の拡大が進み、
どうにか自律神経のバランスした状態に頼つて、霊魂の自制が行われて居る。
第六頌
霊魂と云う言葉は、正に秘密の開示であり、
自分自身では無いと云う言葉が、正に自己告白をして居る。
多数の仏陀に依つて、自分自身で無い事が説かれ、自分自身で無い事も無い事が説かれ、
内容のはつきりしない何かが、霊魂の正に隠された内容である事が説かれた。
第七頌
正に返還されて来たものが、語られて来たもので有り、
正に帰つて来たものが、心を養うための牧場で有る。
上に上がつて来無かつたものは、妨害されて居ないので有るから、
自律神経のバランスが確保されて居る状態こそが、正に宇宙そのものの実情である。
第八頌
全てのものが全部実在して居ると云う事は、矢張り現実では無い。
現実が全て実在して居ると云う思想は、矢張り全てが実在では無いと云う思想と同じ様に、誤りで有る。
全てが実在では無いと云う事でも無いし、全てが実在で有ると云う事でも無い。
この場所に於ける「これ」が実在で有ると云う教えが、釈尊のお説きになつた教えで有る。
第九頌
超越するものも無ければ、追随するものも無い状態は、平和な状態であり、
様々の発展に支えられて、自己満足の状態が展示されて居る。
変化や相違に煩われない状態、異なつた目的や対象を持たない事、
この場所に於けるこれが、現実の実状に帰属し、特徴を見せて居る。
第十頌
明々白々とした何かが、何かとして存在して居る。
何故かと云えば、別にそう大きなものが有る訳では無く、具体的なものが具体的なものとして存在して居るだけの事で有る。
強いて別のものが具体的なものとして有ると云う様な事実は、全く無い。従つて、
断ち切る事の出来ないものが、永遠なもので有ると云う様な事事実は、絶対に無い。
第十一頌
たつた一つの目的の為では無く、別の目的の為でも無い。
途切れ途切れのものでは無いけれども、永遠のものでも無い。
其れは具体的なものを意味し、真実を得た人々の呼び名で有り、
多数の仏陀に属する人々で有り、懲罰を与える人々で有る。
第十二頌
綜合的に仏陀と考えられて居た人々は、存在して居た事自体が、余りはつきりとはして居ない。
声聞乗と呼ばれた人々に関しては、矢張り摩滅の運命に曝された。
たつた一つの宇宙的な霊性に専心した縁覚乗と呼ばれる人々等、
夫々が混合状態を離れて、出発に専心して居る。
霊魂が様々の集合体の一部として,存在して居る場合には、
霊魂が上昇したり、死滅したり、場所を占拠したりする事が、有る筈である。
しかし霊魂が様々の集合体とは別個の存在で有るとするならば、
霊魂には様々の集合体とは別の特徴が有る筈である。
第二頌
矢張り霊魂と一緒にその人自身も動く。
霊魂に取つて、一体何処に将来の存在が有り得よう。
全ての俗世間的な関係から自由であると云う事は、
静寂で有ると云う状態からも抜け出して、自分自身からも、自分自身以外からも、抜け出す事に成らざるを得ない。
第三頌
全ての俗世間的な関係からも自由で有り,利己主義からも自由で有ること、
其れ等は正に霊魂に取つて現実そのもので在り、認識の対象とは成らない。
利己的で無い事も、利己主義から自由で有る事も、
其れ等は眼に見える場合も有れば、眼に見えない場合も有る。
第四頌
「私の」と云う言葉とか、「私」と云う言葉とかは、使い古された言葉では有るけれども、
外側に向かつて自分自身そのものを提供するのと、正に同じ事で有り、
手控える事を自分自身の為に実行する事であり、
その様にして具体的な領地を気にし無くなる事が、具体的に領地を持つ事に繋がる。
第五頌
行為に関連して苦しむ事が、霊魂の為に住居を作り上げ、
行為と苦しみとが、絶えず入れ替わる。
様々の事物が拡張を遂げる事に依つて霊魂の拡大が進み、
どうにか自律神経のバランスした状態に頼つて、霊魂の自制が行われて居る。
第六頌
霊魂と云う言葉は、正に秘密の開示であり、
自分自身では無いと云う言葉が、正に自己告白をして居る。
多数の仏陀に依つて、自分自身で無い事が説かれ、自分自身で無い事も無い事が説かれ、
内容のはつきりしない何かが、霊魂の正に隠された内容である事が説かれた。
第七頌
正に返還されて来たものが、語られて来たもので有り、
正に帰つて来たものが、心を養うための牧場で有る。
上に上がつて来無かつたものは、妨害されて居ないので有るから、
自律神経のバランスが確保されて居る状態こそが、正に宇宙そのものの実情である。
第八頌
全てのものが全部実在して居ると云う事は、矢張り現実では無い。
現実が全て実在して居ると云う思想は、矢張り全てが実在では無いと云う思想と同じ様に、誤りで有る。
全てが実在では無いと云う事でも無いし、全てが実在で有ると云う事でも無い。
この場所に於ける「これ」が実在で有ると云う教えが、釈尊のお説きになつた教えで有る。
第九頌
超越するものも無ければ、追随するものも無い状態は、平和な状態であり、
様々の発展に支えられて、自己満足の状態が展示されて居る。
変化や相違に煩われない状態、異なつた目的や対象を持たない事、
この場所に於けるこれが、現実の実状に帰属し、特徴を見せて居る。
第十頌
明々白々とした何かが、何かとして存在して居る。
何故かと云えば、別にそう大きなものが有る訳では無く、具体的なものが具体的なものとして存在して居るだけの事で有る。
強いて別のものが具体的なものとして有ると云う様な事実は、全く無い。従つて、
断ち切る事の出来ないものが、永遠なもので有ると云う様な事事実は、絶対に無い。
第十一頌
たつた一つの目的の為では無く、別の目的の為でも無い。
途切れ途切れのものでは無いけれども、永遠のものでも無い。
其れは具体的なものを意味し、真実を得た人々の呼び名で有り、
多数の仏陀に属する人々で有り、懲罰を与える人々で有る。
第十二頌
綜合的に仏陀と考えられて居た人々は、存在して居た事自体が、余りはつきりとはして居ない。
声聞乗と呼ばれた人々に関しては、矢張り摩滅の運命に曝された。
たつた一つの宇宙的な霊性に専心した縁覚乗と呼ばれる人々等、
夫々が混合状態を離れて、出発に専心して居る。
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