2010年5月12日水曜日

第十七章 行為と結果との融合に関する検証(33頌)

第一頌

自分自身を抑制する事は、極めて優れた素質で有り、

遠く離れた地域に迄恩恵を与える事が、正に其れで有る。

友達から与えられた現実が、宇宙の秩序と呼ばれる具体的な事実であり、

結果に含まれて居る果実は、将来に於けるこの世の中の実情で有る。


第二頌

現に見えて居る事が、正に感受された内容で有り、

行いとして語られたものは、遠方からの甘やかしで有る。

其れに含まれて居るものは多数の外見であり、

行為に関連した事柄が、公表される。


第三頌

其処に於いては、例の眼に見えるものが語られ、

行為そのものは、精神的な問題に帰属して居り、伝統的な法律に合致して居る。

その様な状況の中に於いては,其れは正に言葉に依る状況の描写であり、

具体的な事実が、集団または多数に属する事であり、言葉が原因であつたりする。


第四頌

談話が限り無く続けられて居る。その様な様子は、

正に情報が全く途切れた様な状態で有り、しかも情報が充分に知らされて居る様な外観が示されて居る。。

情報が全く閉ざされて居る様には見えるけれども,実際にはそうでは無く、

追憶が停止してしまつた様な状態が、実情である。


第五頌

肉体上の快楽が追随して来る処から快適であり、

不純で有ると同時に,現実らしい性格のもので有る。

はつきりと眼に見えるものであり、しかも七種類に分かれた宇宙の秩序とは、真実を選ぶ事、努力をする事、歓喜する事、余分なものを排除する事、断念する事、自律神経のバランスを保つ事、精神を集中する事である。

様々の行為を整えると云う事は、伝統的な法と結び付く事で有る。


第六頌

そして兼ねて約束した通り、非常な若さと決めた時間とを離れて、そして、

行為と呼ばれる具体的な事実を、生まれ付きの状態として、分相応の状態に広げる。

抑制、そして抑制、

其処に現実的な何かが,結果として生み出される。


第七頌

其れが新芽と呼ばれる贈り物で有り、生命の基で有る。

過去から続いて居る継承が、やつと追い着いて来る。

更に続く拡大が結果として現れ、種子を離れて動き出す。

現実は決して追い付くだけでは無い。


第八頌

種子を離れて正に其れから、連続的な継承が有る。

連続的な継承を離れて正に、果実から得られた成果が有る。

種子が有る以前に、果実が有るからこそ種子が有る。

切断されて居ないものが永遠なもので有るとは、決して云え無い。


第九頌

其の様な事態の現に継続して居る事が、現に現れて居る状態が中断する事無く続いて居る事を示して居り、

其の様な考え方の益々進行して行く事が、はつきりとして居る。

其の様に発展した状態は、結果として現れた実情として動いている。

現実は矢張り前に向つてばかり進むものでは無い。


第十頌

現に現れて居る実情を離れた場合、其れに依つて中断する事の無い継承が始まる。

そして中断する事の無い継承を離れた場合、結果から生まれたものだけが残る。

行為を実行する以前に、結果が其れなりの効果を發揮し、

完全に切られた内容は、絶対に永遠では有り得無い。


第十一頌

宇宙の秩序に帰属して居ると云う事は、真直ぐに真実を目指す事で有り、

様々の汚点の無い事で有り、様々の具体的な行いの方法で有り、十重禁戒で有る。

結果的には、完全な享楽で有り、一種の物差しで有り、

宇宙の秩序に帰属し、今後の生涯に関する問題で有り、現に此の場所に於ける問題で有る。


第十二頌

恩恵の増大する問題で有り、亦同時に偉大な問題で有る。

悪徳は屡足枷を掛け度く成る様な虚構では有るけれども、

探し求める行為は実情としては、決してその様なものでは無く、

その場次第のやり方で、活用される。


第十三頌

再度此の場所で、私は公言したい。

其の様な場所に於ける何等かの虚構は,馬が馬具を付けられる様なもので有る。

真実を得た沢山の人々に依つて、亦縁覚乗と呼ばれる人々に依つて、

そして声聞乗と呼ばれる人々に依つて、やはり名前を挙げて賞賛される。


第十四頌

鳥の翼の場合には,成果の有る限り飛ぶ事が続く。

其の様な方法は,行為の場合も全く同じで有る。

地水火風の基礎物質も、現実的なもので有り、

最初の製作に於ける未発達なものも、正に現実で有る。


第十五頌

停止する事は、遠くに送られる事とは違う。

製造する行為と拒否された訳では無いと云う事実とは、全く同じで有る。

従つて、果実の存続する間継続する事に依つて生産が続くし、

行為に関連した事柄に依存する事に依つて、結果が生まれる。


第十六頌

恐らく仕事が停止するとか、仕事が遠くに送られるとかと云う事に依つて、

矢張り様々の行為が同時進行すると云う様な事に依存して居る。

その場合、様々の悪徳も様々の要素に依存して居る処から、

其処に於いては、行為そのものを破壊する事に付いても、無慈悲な実行が行われる。


第十七頌

全べての探究は、芽生えの一部分である。

現実の分け前に帰属して居り、亦様々の行為に帰属して居る。

一つの物から他の物への推移に依存して居り、

何か一つのものの作り出される事が、正に現実で有る。


第十八頌

様々の行いと様々の行いとが、相互に見合つて居る。

宇宙の秩序の現に眼の前に見えて居るものが、正に現実である。

真実の道と世俗の習慣との二種類の方法に包容されるか、又はたつた一つの真実の原則に包容されるかして、

正に充分に発達した二つの基準の確立が、既に現実問題として定着して居る。


第十九頌

結果は経過させる事に依つて、回避する事が出来るが、其れも亦現実である。

自殺の行為を回避させる事は、矢張り事前に完全に回避させるべきである。

苦痛を起こさせ無い事が、正に永遠の鉄則である。

其の様な場合には、特殊の事情を考慮する事が、当然の義務である。


第二十頌

自律神経のバランスに関する状態は、交感神経と副交感神経との相互関係の失われると云う事が、絶対に有り得無いから、

社会生活に於ける浮き沈みも、永遠のものであると云う事は、決して有り得無い。

様々の行為も、成果の有る限り続けて行く事が鉄則で有り、

其の様な宇宙の原則も、やはり釈尊に依つて教えられた。


第二十一頌

一体どの様な理由から行為が実行され無いのであろうか。

彼処でも此処でも、あらゆる財産の欠乏して居る事が、その原因である。

正にその様な原因から、具体的な事実が作られて居ないので有る。

其の様な理由から、果実が実らないので有る。


第二十二頌

行為が自分自身の出生地に於ける仕来りである処から、従つて、

恐らく一切が変更不可能で有り、恐らく睡眠の為に横に成る事さえ、不可能なので有ろう。

何も作る事の出来ない事情が、行いそのものとして有るので有ろう。

何故ならば、何かを作ると云う作業は、終わりの無い作業で有つては成らないので有るから。


第二十三頌

結局作る事が出来ないのでは無かろうかと云う不安や、実行する事が不可能であると云う心配等が重さなつて、

恐らく行為が実行出来ない様な場合には、

継続すると云う約束を維持出来ない場合があり、

その場合には、悪徳の数を増加させる結果に成る。


第二十四頌

何かを実行すると云う事は、様々の邪魔に依つて妨害されると云う事である。

其れ等の邪魔の全てが、眠る為に横に成る事とは限らない。

正しい行いと不正行為との問題だけでは決して無い。

仕事を分割する問題が、何時も絡んで居る。


第二十五頌

具体的に料理が作られ、料理が実際にもう一度出来上がる。

矢張りもう一度、料理の仕上げが行われるので有り、

其の為に行為が秩序正しく置かれた状態に安定する。

従つて其の場合には,行為が自分自身の本性から起こる生まれ付きの性格を發揮する。


第二十六頌

行為は、激しい苦痛が自然を形作つて居る状態に即応して、この世の中を現わし、

其れ等の事実が、正に紛れも無い激しい苦痛である事を示して居る様に,見受けられるけれども、

実情から云えば、様々の現実がこの世の中の内容として、激しい苦痛であると云う事では決して無く、

恐らく行為そのものが、現実の事実としてその侭、真実であると主張する事が出来るかどうかと云う疑問であろう。


第二十七頌

行為、激しい苦痛、そして身体、

明々白々とした様々の真実、其れ等が綜合的に語られた様々の談話の内容で有る。

行為、激しい苦痛、そして自律神経のバランスと呼ばれる身心の均衡状態、

その様な場合、その身体の特徴に依存した有り方は、一体どんなもので有り、何処から来るので有ろう。


第二十八頌

勉強して居ない事が災いして、成長が未熟で有つたり、

何ものかに対する渇望を持たず、此の世の中に於ける融合のみを期待して居ると云う事が,正に現実で有る。

現実そのものが享楽する主体で有つて、現実そのものが何かを作り出す主体で有ると云う事は、決して無い。

現実以外のものが現実で有ると云う事は決して無く、現実は正に現実として実在する。


第二十九頌

確乎たる信念は、一斉に飛び出して来る様なものでは無く、

確乎たる信念で無いものも、一斉に現れて来るものでは決して無い。

その様な形で眼の前に実在して居るものが、行為である。

従つてその時以後に相違が実在するものでは、決してない。


第三十頌

行為はその後変化として実在するものでは、決して無い。

恐らく、行為から生まれたものが結果で有ると云う事実は、何処にも無い。

恐らくその場合、結果的に欲望を満足させた人は、結果の中に実在する。

欲望を満足させた人が、将来何処かに存在すると云う事が、どうして有り得よう。


第三十一頌

其の様な方法で、建築物を構築した人が、支配者で有り、

完全に計測して組み建てた事が、充分な意味での完成を示して居る。

建物を完全に計測して建てようとしたと云う事と、其れが完全に計測されて出来上がつたと云う事実とは、事態が同じでは無いので有るから、

現実は今回も矢張り、既に出来上がつたと云う事実が大切で有る。


第三十二頌

此の様にして構築されたものが、外見的な形態で有り、作成者で有る。

其れが行為であり、是が作品の成果で有る。

其の様なやり方で、製作されたものとは別のものが存在する。

其処には創作されたものと創作されたものとが、眼の前に現れて居る。


第三十三頌

様々の激しい苦しみも、様々の行為も、矢張り外見的な姿の現れで有り、

矢張り様々の行為を実行する人々で有り、矢張り様々の結果そのもので有る。

ガンダルヴァと呼ばれる架空の都市で有り、刑務所を必要とし無い都市で有り、

太陽の光りで有り、睡眠であり、其れ等と似た様な世界で有る。