2010年5月27日木曜日

第二十一章 共在と遍在との融合に関する検証(21頌)2(

第一頌

共在も遍在も両方共実在を意味して居る訳では無い。

共在は正に遍在に依存して居る。

しかし共在も遍在も、両方共実在を意味して居る訳では無い。

遍在は正に共在に依存して居る。


第二頌

名称だけが優先して事前に存在して居ると云う事態は、現実には有り得無い。

共在が遍在を作り出して居る訳では無い。

遍在は正に誕生で有り、やがて死滅を避ける事が出来ない。

遍在が誕生で無い事は、避けられ無い。


第三頌

正に共在に依存して居る事が、遍在で有る。

遍在と共在とが、同時に存在して居ると云う事が、将来と云えどもどうして有り得よう。

誕生でも無ければ死滅でも無いものが、正に眼の前の事実で有る。

何故ならば、現代に即したものとして、様々のものが眼の前に見えて居るから。


第四頌

どうして名称が将来に向かつて存在すると云う事が、有り得よう。

共在も遍在も実在では有り得無い。

一時的な存在も、多数のものの存在に依存して居る訳では無いので有るから、

どんな時点でも、認識の対象に成らないものは、認識出来ない。


第五頌

共在は正に遍在に依存して居るので有るから、

共在と遍在とが同時に存在すると云うことが、将来と云えどもどうして有り得よう。

誕生は死亡と決して同じでは無い。

何故ならば、誕生と死亡とは同時に存在して居ることが認識出来るので有るから。


第六頌

共在して居るものが、違つたものと違つたものとを活用して、矢張り製品を完成する事が有り得る。

遍在して居るものが、矢張り違つたものと違つたものとを使つて、両方を使いこなして居る。

具体的なものと具体的なものとだけを取り上げて、完成品を作り上げると云う事は、あまり見かけ無い。

一体如何して何もかも見る事が出来ないので有ろう。


第七頌

その処在地に関連して、共在の場合にはその処在地が完全に分からない。

共在の場合には、分からないと云う条件が完全に成立しない程、実在の問題が起こらない。

処在地の問題に関連して、遍在の場合には、所在地が何処に有るかと云う問題自身が、成立し無い。

遍在の場合には、処在地が何処かと云う問題さえ成立し無い。


第八頌

主体としての共在と主体としての遍在とは、実に良く似て居る。

しかし主体としての遍在の場合には存在と云う性格を認める事が出来ない。

客体としての共在と客体としての遍在とも、実に良く似て居る。

しかし客体としての遍在の場合にも、存在と云う性格を認める事は出来ない。


第九頌

共在と遍在とは実に良く似て居る。

しかし自律神経のバランスした状態の時にのみ現れるものでは、決して無い。

共在と遍在とは実に良く似て居る。

しかし自律神経のバランスして居ない状態の時にのみ現れるものでは、決して無い。


第十頌

共在と遍在とは実に良く似て居る。

矢張り同一の状態で無いと、現れて来ない。

共在と遍在とは実に良く似て居る。

矢張り違つて居ないと云う状態が無いと、現れて来ない。


第十一頌

共在は全く同じ形の存在として、眺める事が出来る。

遍在も全く同じ様な具体的な事実として、存在する事が可能で有る。

共在も全く同じ形の存在として、眺める事が出来る。

意識の喪失と遍在とは、事実上全く同じ様な実情で有る。


第十二頌

存在を回避し無ければ、存在が生まれる。

存在が存在して居ない状況を回避し無ければ、誕生は有り得無い。

存在して居ない状態から離れ無い限り、存在して居ない状態が,生まれて来る。

存在して居ないものが、存在を放棄した場合は、誕生が有り得無い。


第十三頌

主観的なものが、存在を生み出す訳では無い。

客観的なものが、何かを生み出すと云う事も、絶対に有り得無い。

主観的なものも客観的なものも同じ様に、何も生み出さない。

生み出すと云う行為自身が、何かを生み出すと云う事態が、一体何処に有り得よう。


第十四頌

存在は到着すべき方向に向かつて進んで居り、

永遠の性格を持つたものと、刹那的なものとの違いは、眼で見れば分かる。

現実は存在して居るので有るから、見れば分かるし、

眼の前に在る恒常的なものも恒常的で無いものも、両方共存在して居ると思われる。


第十五頌

存在は到着すべき方向に向かつて進んで居り、

切断する事も不可能で有るし、永遠である事も不可能である。

出現も消滅も中断される事の無い連続で有る。

何故ならば、結果も因果関係も、存在であり現実で有るから。


第十六頌

出現も消滅も中断される事の無い連続で有る。

結果も因果関係も存在で有り、現実で有る。そして、

消滅に付随する一回切りの出来事で有る。

因果関係は切り離されて居ると云う考え方は、拘わり過ぎて居る。


第十七頌

現実の存在の中に包含され、単独の存在として依存して居る。

非現実的な存在では無いと云う考え方は、正に拘わり過ぎて居る。

自律神経のバランスした時間の中では、正に瞬間的な状態で有る。

平穏な状態を離れて、存在が中断されずに流れ続けて行く。


第十八頌

最終段階に居る場合と留保の段階に居る場合とでは、実情が大いに違う。

初期の段階では、存在の場所が大いに関係する。

最終の段階に居る場合と、留保されて居ない場所に居る場合とでは、

最初の段階に居る場合には、場所の問題に大いに拘束される。


第十九頌  

抑止された状況の中に有る場合も、最終の段階の中に有る場合も、

其の段階に於いては、最優秀の状態が現れる。

抑止されて居る状態が、恐らくその一つで有ろうけれども、

生まれつつ有る状況の中では、以前にも以後にも有り得無いものが、存在する可能性が有る。


第二十頌

実際に抑止された状態で無い場合でも、

生まれつつ有る状態が、抑圧されて居る場合には、

その状況の為に、50%増の数量が死亡する可能性が有る処から、

その為に、一般的な集合体の状況に応じて、生まれて来る。


第二十一頌

この様に正に過去、現在、未来と云う三種類の時間の経過に従つて、

何等の拘束状態も無しに、出生と原因結果の関係との中断する事の無い継続が続く。

三種類の時間の恩恵を受けて、上記の様な様々の問題は実在して居ない。

この様な様々の現実が、どうして出生と因果関係との中断する事の無い継続で有り得るので有ろう。