2006年11月17日金曜日

学道用心集(9)第八 禅僧(ぜんそう)の行履(あんり)の事

右、仏祖(ぶっそ)より以来(このかた)、直指(じきし)単傳(たんでん)、西乾(さいけ
ん)四七、東地(とうち)六世(ろくせ)、絲毫(しごう)を添(そ)えず、一塵(じん)を破(やぶ)
ること莫(な)し。
衣(え)は曹渓(そうけい)に及び、法は沙界(しゃかい)に周(あま)ねし。
時に如来の正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、巨唐(きよとう)に盛んなり。其の法の體(てい)為(た)らくは、摸索(もさく)するも得ず、求覓(ぐみゃく)するも得ず。見處(けんじょ)に知(ち)を忘(ぼう)じ、得時(とくじ)に心を超(こ)ゆ。
面目(めんもく)を黄梅(おうばい)に失(しつ)し、臂腕(ひわん)を少室(しょうしつ)に断(だん)ず。
髄(ずい)を得、心(しん)を飜(ひるが)えして風流(ふうりゅう)を買ひ、拜(はい)を設(もう)け、歩(ほ)を退(しりぞ)いて便宜(べんぎ)に墮(お)つ。
然(しか)れども、心に於ても身に於ても、住(じゅう)するなく著(じゃく)する無(な)し。留(とどま)らず滞(とどこお)らず。
趙州(じょうしゅう)に僧問(と)う、狗子(くす)に還(かえ)つて仏性(ぶっしょう)ありや無なしやと。
州云く、無(む)と。
無字の上に於いて、擬量(ぎりょう)し得てんや、擁滞(ようたい)し得てんや。全く巴鼻(はび)なし。
請(こ)う試みに手を撒(さっ)せよ。
且(しば)らく手を撒して看(み)よ。
身心は如何、行李(あんり)は如何ん、生死(しょうじ)は如何ん、仏法は如何ん、世法は如何ん、山河(さんが)大地、人畜(にんちく)家屋(かおく)、畢竟(ひっきょう)如何ん。
看来り(みきた)り看(み)去って、自然(じねん)に動静(どうじょう)の二相(にそう)了然(りょうねん)として生ぜず。
此の不生(ふしょう)の時、是れ頑然(がんねん)にあらず、人之れを證する無く、之れに迷うもの惟(こ)れ多し。
参禅の人、且(しば)らく半途(はんと)にして始めて得たり、全途(ぜんと)にして辞(じ)すること莫れ。
祈祷(きとう)、祈祷(きとう)。

(現代語訳)

上記の表題の意味は、釈尊以来、直接の指示が単一に伝えられて、西方のインドに於いては二十八代、東方の中国に於いては六代に亘つて、ほんの一万分の一、ほんの千分の一程の追加もなく、ほんの一分子を破壊するという事もなかつた。
しかしお袈裟は、曹渓山の居られた大鑑慧能禅師に迄到達し、釈尊の教えは地球の隅々迄行き亘つている。
その当時、釈尊のお説きになつた正しい教えの眼目の処在である坐禅は、偉大な唐の国に於いて盛んであつた。
その教えの実体については、手探りで見付け廻つても掴むことが出来ず、一所懸命に求めて見ても手にすることが出来ない性質のものであつた。
基本的な考え方としては、理知的な考えを離れ、真実を得た時には理性的な心の働きを超越する性質のものであつた。
したがつて、黄梅山で修行をしておられた大鑑慧能禅師も大満弘忍禅師の下で、従来の様子と違う様子を持つように成り、太祖慧可大師も少室峰において、腕を断ち切る行動を取つた。
釈尊の教えの真髄を得た後、心境を切り換えて優雅な生活を送り、師匠に対して御拝をした後、自分の立場に戻つて、現在の瞬間に適応する態度を取るようになつた。
しかし結果として、精神的にも肉体的にも、停滞することも無ければ執着することも無く、停止することも無ければ滞留することも無かつた。
趙州禅師に対して僧侶が質問した。「逆に犬には仏としての性質がありますか、ありませんか」と。
趙州禅師云う。「無い」と。
この「無い」という言葉の意味に関して、何かを考えようとしたりまごまごしたりすることが許されようか。われわれに与えられた現実の境涯には、牛の鼻の先についた手綱のような拘束は、何も無いのである。
試みに貴方の手を自由にしてご覧なさい。取りあえず貴方の手を自由にしてご覧なさい。身体や心の様子はどうですか。行いとはどんなものですか。生き死にとはどんなものですか。釈尊の教えとはどんなものですか。人間社会の法則とはどんなものですか。山、河、大地とはどんなものですか。人間、動物、家屋とは一体どんなものですか。
これらの問題を繰り返し繰り返し観察して見ても、副交感神経が強すぎるために生まれて来る動揺もなければ、交感神経が強すぎるために生まれて来る固定も全く生まれて来ない。
此の動揺も固定も生まれて来ない時点は、決して動きの取れない状態ではないにも拘らず、これを体験する人が見当たらず、それがどんなものか体験する事無しに、迷つて居る人ばかりが多い。
現に既に坐禅をしている人々は、取りあえずその途中でそのような知識を得る事が出来たのであるから、どうか最後まで坐禅を中断しないようにお願いしたい。心から祈ります。心から祈ります。

(解説)

この章においては、坐禅をする僧侶の修行に関連して、釈尊以来個々の祖師方の追求された処が、一分一厘の狂いもなく伝承されて来ており、その実体が何かを理論的に模索したり感覚的に求めたりすることとは、違う事が語られている。
それは理知的な考えの世界を否定し、心理的な立場から抜け出した世界を意味している。しかしこのように理性的な思考の世界を否定し、心理的な世界を超越した世界が一体どのような世界であるかという問題について、二十世紀、二十一世紀の心理学、生理学の発展を待つ迄は,その正体を確認することが出来なかつた。
しかし今日ではその問題が明快に確認されている。心に関しても肉体に関しても、定着せず執着しないという状態は、自律神経がバランスして、心の意識である交感神経と肉体の意識である副交感神経とがプラス/マイナス/ゼロの状態となり、停滞もなく執着も無い行いの世界における現在の瞬間を意味している。
これが佛教哲学の出發点に当る基礎事実であり、その基礎事実を実際に坐禅の修行を通じて体験するのでなければ、われわれは行いを知り、坐禅を知り,現実を知る事ができない。したがつて道元禅師は仏道修行に関連して、坐禅の修行が不可欠である事を強調し、われわれ佛教徒に対して、坐禅をする事を懇願しておられる。