読み易い「中論」の翻訳
日本語によるブログを大変長い間休んでおりましたが、最近[中論」のもつと読み易い日本語訳を作つて見たいという希望を持つようになりましたので、今日からその作業に入つて見たいと思います。読み易いことを重点的に考えておりますので、原文には含まれて居ないような表現も多少挿入して、訳文を作りたいと思いますので、ご了承願います。
やさしい[中論」
第一章 正しい教えの検証
第一頌
主観的なものではない。客観的なものでもない。(主観的なものと客観的なものとの)混合物でもない。しかし、理屈に合わないものでは決してない。
眼の前の事実が、その侭見えて居るだけの事であつて、何かが何処かに存在しているという事でもなければ、何かであるという事でもない。
第二頌
四つの正しい教えとは、宇宙に漲つている理性と、客観的な外界の世界と、行為の行われる現在の瞬間と、
そして現に眼の前に見えている、神のようにさえ見える現実そのものである。そして正しい教えとして五番目のものは、決して存在しない。
第三頌
主観的な存在である思想は、様々の存在の中や様々の正しい教えの中では,認識することが出来ないのであるから、
主観的な存在である思想の実在が認識出来ない以上、客観的な存在としての感覚的な刺激も,認識の対象と成る事が在り得ない。
第四頌
行いは正しい教えの類似品ではなく、正しい教えの類似品ではない正しい教えそのものが、行いである。
さまざまの正しい教えが行いの類似品であるということでは決してなく、偶々行いに似たものが実際に、実在しているだけの事である。
第五頌
明々白々とした様々の事物が現れており、そのようにして様々の事物が、様々の教えとして示されている。
様々の事物がこの世の中に現れて来ない場合には、その度合いに応じて様々の正しい教えも、全く訳の分からないものになつてしまう。
第六頌
抽象的なものの場合であろうと、具体的な物の場合でであろうと,正しい教えは,それ以外の目的の為に縛られていることが決してない。
抽象的なものは、どのような意味で正しい教えなのであろうか。具体的なものは、どのような意味に於いて,正しい教えに依存しているのであろうか。
第七頌
安定しているものと、安定していないものとが融合し、具体的なものと抽象的な物とが融合した宇宙が、現れていない場合には、
どうして何かが起こるという事があり得よう。何故ならばその場合には,理性でさえも実際問題として、具体的なものによつて縛られてしまつているから。
第八頌
単に物質的な世界とは違う世界がこの世の中である場合,現実的な宇宙が見えて来る。
現に物質的な世界とは違う宇宙の中に在りながら、更に物質的な世界の存在する可能性が何処に在り得よう。
第九頌
宇宙がまだ現れて来ない段階で、行為を規制する自己管理の能力が現れて来るということはあり得ない。
絶え間なく動く心の働きが抑制されていない場合、正しい教えが満ち溢れているということは、絶対にあり得ない。
第十頌
さまざまの存在の中においては、したがつてさまざまのこれと云つた特徴を持たない存在の中においては、現実が一つの固定的なものとして認識されることがない。
現実のこの世の中が、それ自体として存在するということは、現に具体的なものが、眼の前に現れて居るということでは決してない。
第十一頌
個々バラバラのものと抽象的な綜合とが一つに重なつている場合、したがつて正しい教えが現実のものとなつている場合には,具体的な結果が実在であるという事は決してあり得ない。
そのような事態が正しい教えから生まれて来るという事が,どうしてあり得よう。そのような事態が正しい教えに基ずいて期待されるということは、全くあり得ない。
第十二頌
そこに於いては、現実的なものやそして更に具体的なものが、具体的なものや正しい教えと一緒になつて前進する。
或は多少疑わしい根拠に従つたり,或は何の根拠も持たずに、結果が他のものに先立つて先行すると云うことはない。
第十三頌
結果という考え方は、正しい教えを傷つけるけれども、それと同時にさまざまの正しい教えは、無能な人々にとつて苦しみの種である。
結果という考え方は、確かに無能な人々を惑わす考え方ではあるけれども、それが直ちに正しい教えを傷つけるということが、どうしてあり得よう。
第十四頌
したがつて正しい教えを傷つける力もなく、正しくない教えを傷つける力も無いものが,結果である。
結果と呼ばれるものが、実在ではないと云う事を否定した場合,正しい教えと正しくない教えとが混然一体
となつた現実を、一体何処に発見する事が出来るであろう。
第二章 「行つた」、[まだ行つていない」の検証
第一頌
「行つた」(という追憶)が実際に行くことはないし、それと同じように「まだ行つていない」(という想像)が実際に行くということも決してない。
「行つた」(という追憶)とか「まだ行つていない」(という想像)とは別の「行きつつ在る」(という現在の瞬間における認識)も、実際に行くということとは別である。。
第二頌
手足の動きが行くという現実の動きである場合には、その手足の動きは常に[行きつつある」という現実の行いそのものである。
手足の動きが「行つた」(という追憶)とか「まだ行つていない」(という想像)とかと違う場合には,行くという動きは常に「行きつつ在る」という現在の瞬間における事実と同じである。
第三頌
現実の行いが現に実行されている場合には、それを言葉で表わすことが、どうして出来よう。
現に実行されている[行く」という行いが、二つに分裂しているという事態は,決して起こり得ない。
第四頌
行きつつ在るという状態の中における行くという行いは、行きつつ在るという状態と行くという現実の行いとが、相互にしつかりと結び付いている。
行くという動きを離れて、行きつつ在るという状態が動くのである。何故かというと、行きつつ在るという状態は,行かされているという事が実情であるから。
第五頌
行きつつ在るという状態にこだわるか、行くと云う現実の行いにこだわるかが、現実の行くと云う行いにおける二つの問題点である。
その行くという現実の行いに依存して、眼の前の行きつつ在るという状態があり、それと同時にその場に現実としてあるものが,やはり行くという現実の行いである。
第六頌
行くという事態が二つに分けられて居るということは、固定観念の影響を受けていると云う事であり、行くと云う現実の行いを二つに分けることも、こだわりである。
何故ならば、行く人という考え方さえ、非難の対象となつているのであるから、行くという現実の行いが、姿を現わして来る筈がない。
第七頌
行く人という概念が非難の対象となつている場合、現実に行くという行いは現れて来る筈がない。
其処に於いては,行く人という概念は、行くという現実の行いの中には存在しないのであるから、そのような概念が、将来何処に存在するという事がどうしてあり得よう。
第八頌
行くという動きが行くのではないのと同じように、行かないという動きも当然行くということがない。
行くという動きと違う動きが行かないという動きであつて,(行くという動きと行かないという動きの他に)三番目のものが行くということも実際には決してあり得ない。
第九頌
行くという動きがほんの僅かでも行くということが、将来といえどもどうしてあり得よう。
現実の行くという行いがない限り、行く人という概念が現れて来るということは、どんな時でも絶対にあり得ない。
第十頌
行く人と行くという動きとのどちらか一方が行くという考え方は、両方ともこだわり過ぎている。
行くという現実の行いも行く人も両方とも無い場合には、行く人を離れた行くという現実の行いは、単なる願望に過ぎない。
第十一頌
行くという現実の行いにおける二つの要素に、執着させられ過ぎている場合には、単純に行く人そのものが前進する。
その場合行く人という概念は、何かはつきりしないものによつて誘導されている。具体的には行く人という何かはつきりしないものが、前に進んでいるのである。
第十二頌
行くという現実の行いは「行つた」という追憶の中に生まれる筈がないし、行くという現実の行いは[まだ行つていない」という想像の中にも生まれる筈がない。
行くという現実の行いは「行きつつある」という認識の中にも生まれる筈がないのであるから、行くという現実の行いの始期を特定することはできない。
第十三頌
行くという現実の行いが実行される以前で、まだ何もない場合には、「行きつつある」(という認識)もないし、「行つた」(という追憶)もない。
そのような状況の中で、行くという現実の行いが始まるのであつて、行くという現実の行いが、「まだ行つていない」(という想像)の中にあるということが、何処にあり得よう。
第十四頌
「行つた」(という追憶)も、[行きつつある」(という認識)も、「まだ行つていない」(という想像)も、何か別のものとは入れ替えることの出来ない(独自の)の存在である。
其処においては一切のものに関連して、眼では見る事の出来ない思想というものが、行くという現実の行いに関連して、開始される。
第十五頌
行く人が停止していないのと同じように、行かない人も停止している訳では決してない。
行く人でもなく行かない人でもない第三番目の人が、現実に停滞するというようなことが、どうしてあり得よう。
第十六頌
行く人と同じように、この世の中の一切のものは、停滞するという事が決して起こり得ないのである。
行くという現実の行いが実在しない場合には、行く人が具体的に姿を現わして来るということも、決して起こり得ないのである。
第十七頌
現に行きつつあるという状態から切り離した場合、停滞という事実は起こらない。それと同じように「もう行つた」とか、「まだ行つていない』と云う状態を離れて、停滞という事象が起こるという事もあり得ない。
行くという現実の行いは、事実の発生である。そしてそれと同じように、消滅するという事も事実の発生であり、行くという動きも事実の発生である。
第十八頌
そのような事態が、正に行くという動きに依存した行くという現実の行いであり、事実に対するそのような考え方は、決してそうこだわつたものではない。
それ以外の場合でも、行くという動きに関係しており、そのように行くという動きに関係させた考え方も、決してこだわつた考え方ではない。
第十九頌
そのように行くという動きが行くという現実の行いを実際に作り出して行くことが、現実の問題として起こり得るのであるから、その際には、
(行くという動きと行くという現実の行いとが、)たつた一つのものに纏まることであり、それは正に実行することと実行そのものとが、全く一つのものとして重なつていることである。
第二十頌
また別の捉え方として、行くという事実と行くという動きとが、交互に入れ替わると考える場合には、
行くという現実の行いは恐らく行くという事実を度外視して動くのであろうし、行為をする人も恐らく行くという現実の行いを度外視して動くのであろう。
第二十一頌
また(行くという動きと行くという現実の行いとが、)一つに纏まることが目的の達成であつて、二つの種類に分裂していることは、やはり(行くという動きと行くという現実の行いとが、)二つのものに分裂していることを意味する。
二つのものの分裂が、認識できない状態の中に、目的を達成した状態があるのであるけれども、そのことの認識されるということが、現に実際問題としてはあり得ない。
第二十二頌
行くという動き自身に依存して、行くという動きが行くという動きを推進させるのであつて、行くこと自体が、実際に行くこと自体を行かせるということはない。
したがつて、行くということ自体が実在していない以前に、何か容れ物のようなものを、何かが動かすというようなことはない。
第二十三頌
行くという動き自身に依存して、行くという動きが行くという事実を推進させるのであつて、行くという動きが、何か別のものを動かすということではない。
行くという動きが、二重に現れて来るという訳ではなく、したがつて私は行くという動きが、一つに結び付いていることを想定している。
第二十四頌
現実の世界と、往くという現実の行いと、往く人という三つのものが、動く訳ではない。
抽象的な世界と往くという現実の行いとが、一つのものであるということは、絶対にあり得ないのであるから、三つのものが、たつた一つの現実として行くのである。
第二十五頌
行くという現実の行いと、現実の世界と、抽象的な世界という三つのものが、前進する訳ではない。
したがつて行くという具体的な動作と、行きつつある人と、行きつつある状態とは、決して認識の対象とはならない。
第三章 眼その他の感覚器官の検証
第一頌
見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れること、そして感覚中枢の働き、
これら六種類の感覚作用が身近にあり、見られたものその他が、その対象となつている。
第二頌
自分自身の心の働きが、見るという働きを作り出すのであるから、自分自身の心の働きも、見るという働きも、見られる対象となることはない。
そのような自分の心が、見られる対象となることはない。そのような自分の心は、見られるということがないのであり、そのような心が、正反対のものとして見られるということが、将来といえども、どうしてあり得よう。
第三頌
われわれが直接掴むものは、火のように眼で見えるものでもなければ、視覚に関連したものでもなく、完成されたものでもない。
現実の知覚は、既に具体的に[行きつつある」、「行つた」、「まだ行つていない」という表現を使つて、述べた処である。
第四頌
貴方自身が、自分で見るという考えを拒否するならば、その場合には見るという行為が、何処にあり得よう。
視覚そのものが、見られることがあるかどうかということを考えた場合、そのようなことが起こり得ると考えることは、あまりにもこだわり過ぎている。
第五頌
見る働きが、何かによつて見られるということは絶対にあり得ないし、見ていない状態が見られるということも決してあり得ない。
物事を見ることによつて、詳細な説明をすることは出来るけれども、物事を見る働きというものは、正にその物事(の本質に触れるということではなし)に、ただ接近しているということにしか過ぎない。
第六頌
物事を見る働きは、常に軽視されないとは限らない。軽視するということも、やはり一つのものの見方である。
さまざまの事物が見えているという事実と、見るという働きとは、正に一つのもの(の裏表)であつて、現実的なものが、見る人なしに存在するということが、どうしてあり得よう。
第七頌
見られたものと見る働きとが一つに重なつた(現実)などというものは、あり得ないという考え方から抜け出した時に、思考その他の四種類のもの(思考、感受、行い、現実)が実在する。
この世の中の一切の現象その他が全て実在しないとするならば、将来といえども何が一体存在すると云えるであろう。
第八頌
(物事を見る場合と同じように)聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れること及び感覚中枢についても、説明することができる。
聞く人その他や聞かれた対象その他についても、やはり見ることを母型として、(説明できる点では)同じである。
第四章 集合体の検証
第一頌
外見と本質とが別々になつている場合には、外見そのものも(本当の意味で)見えて来ない。
外見があることによつて(外見と本質とが)別々に見えて来るという訳では決してなく、外見と本質とは(何時も)一体となつて見えているものである。
第二頌
外見と本質とが別々になつている場合には、外見と外見だけとしてしか見えて来ない。
結果を齎さないような物が、目的として実在することはあり得ない。不合理なものの存在するということが、どうしてあり得よう。
第三頌
外見という考え方のために(外見と本質とが)別々に見える場合でも、恐らく(現実の世界では)外見と本質とは一つのものであろう。
およそこの世の中にはあり得ないような不合理なものが、本質として見える場合には、恐らくその不合理なものも本質も、実在ではないのであろう。
第四頌
本質が、外見上はつきり見える形で、または外見に含まれた形で、この世の中に現れて来るということはない。
本質が、外見上はつきりとは見えない形で、または外見に含まれていない形で、この世の中に現れて来るということもない。
第五頌
何の根拠も持たないものが、再度外見としてこの世の中に姿を現わすということは、決して決してあり得ない。
したがつて、外見というものが、姿を現わして来ないことがあり得るし、転換が実際に行われるということを、期待することも不可能である。
第六頌
偽物が、作られたものの中に見当たらない場合にも、本当の業績が、姿を現わして来る。
偽物でないものが、作られたものの中に見当たらない場合にも、実際の状況は、誰の眼にも見えて来る。
第七頌
何かを探究しようとする意図は、さまざまの綜合的な明確な理解の中にある。それは完全なものを作り出すことであり、全般的に見通すことである。
一切のものに対する探究は、正にさまざまの存在の中にあり、外見的なものを拠り処として一切のものが前進する。
第八頌
孤立している状態は、敬遠の対象となり、均衡によつて作り出された静けさが、議論の対象となる。
すべてのものは、孤立した状態ではなく、一切のものが自己管理された状態から生まれて来る。
第九頌
他人に対して欠点を説明する場合でも、均衡した状態で話をするならば、よく説明することができる。
全てのことについて、その人が非難されなければならない事情を何も持つていない場合には、一切のものがよく管理された状態の中で具体化する。
第五章 物質的な要素の検証
第一頌
空間とその特徴とが一体となる以前においては、空間と呼ばれるものは全く認識の対象とならない。
特徴を持たないものが現れているということは、おそらく特徴というようなものから抜け出す以前の(現実の)状態であろう。
第二頌
何の特徴も見当たらない場合には、存在が具体的な何かとして、綜合的に見えている。
特徴が、前進するという状態を作りながら、特徴を持たない実在として存在している。
第三頌
特徴が、前進するという状態を作りながら、特徴を持たない実在として存在している。
特徴のない状態に帰属せず、特徴の中に含まれている前進は、(前進するという)それ自身以外の特徴の中には、絶対に含まれていない。
第四頌
特徴が現れていない状況の中では、その特徴が認識されるということも決してあり得ない。
特徴そのものが認識されていない場合には、特徴そのものが存在するということも、決してあり得ない。
第五頌
したがつて、特徴の認識が気付かれない場合には、特徴の存在が認識されるということも決してあり得ない。
特徴の認識と特徴そのものとが個々ばらばらの場合には、存在そのものの認識されるということ自体もあり得ない。
第六頌
存在するのかどうかさえはつきりしないような状況の中で、存在しないという主張が、将来といえども何処にあり得よう。
存在するとか存在しないとかという議論は、宇宙の秩序に反して居り、存在するとか存在しないとかという議論が、何らかの役に立つなどということがどうしてあり得よう。
第七頌
したがつて(物質は)存在するものでもなければ、存在しないものでもなく、特徴そのものでもなければ、特徴の内容でも絶対にない。
空間や空間に準ずるさまざまの物質は、五種類の物質であり、それらは個々に独立したものでもある。
第八頌
現実が様々のものとして正に見えているにも拘らず、それらの(実在を否定する)愚かな人々は、決して現実的ではない。
それらの人々はさまざまのの存在の中に、静かな恵み深いものを見ることをしない。
第六章 興奮と感受された物との融合に関する検証
第一頌
(現実が)興奮という抽象概念を離れて存在する以前から、感受されたものが興奮という抽象概念を無視して存在している。
その感受されたものが興奮そのものとしてはつきりと存在し、興奮が感受されたものの中に実在として存在することが可能である。
第二頌
興奮が、感受されたものの中における現実の実在ではないというような事態が、将来といえども一体何処にあり得よう。
具体的な場合であろうと抽象的な場合であろうと、興奮や感受されたものの中において起こるすべての実情は、平坦なものであり現在の瞬間における過程である。
第三頌
現実に眼の前に現れているという事実が、正に強力な実情であるから、興奮と感受されたものとの結合は、強制されたものではない。
興奮と感受されたものとの結合は、存在することの望ましい状態であるから、興奮と感受されたものとが、相互に気付いていないということが、相互の関係である。
第四頌
一つでない性質の中に、不可分の性質があるという事実は、実在することがない。
個々ばらばらの性質の中に、一つにまとまつた性質が現存するという状態は、将来といえども、何処にも存在する可能性が全くあり得ない。
第五頌
たつた一つの性質の中に、一つにまとまつたものが内在している場合には、恐らく補助的なものが何もなしに、実体だけがあるということであろう。
さまざまの異なつた性質の中に、たつた一つのものがある場合でも、恐らく補助的なものが何もなしに、現物だけが存在するということであろう。
第六頌
一つにまとまつたものが、仮に個々ばらばらのものでもあり得るとした場合、興奮と感受されたものとの結合は、一体どんなものを意味するのであろう。
完成されたものが、個々ばらばらのものでもあり得るとした場合、たつた一つにまとまつたものが、たつた一つのものであり得ると同時に、個々ばらばらのものでもあり得るということになる。
第七頌
完成されたものが、個々ばらばらの存在でもあり得る場合には、統一されたものと個々ばらばらの存在とが両方とも、興奮と感受された内容とが一つに重なつた状態の中にあり得る。
君は一体どんな目的で、一つの存在を二つの在り方の中に固定させようとしているのであろうか。
第八頌
個々ばらばらのものは、完成されたものとは考えられない処から、君は単に一つにまとまつたものを作り上げることをためらつている。
一つにまとまつたものを作り上げることが目標であるから、君は先ず個々ばらばらのものを作り出すことに熱中している。
第九頌
個々ばらばらの状態は、完成されたものであるとは云えない。したがつて唯、一緒にあるということだけでは、完成されたものであるとは云えない。
一体、何が個々ばらばらの存在としてあるということがあり得よう。しかし君は唯、一緒にあるということだけを乞い願つている。
第十頌
このように感受されたものに依存したり、興奮そのものに含まれた形での完成品は、一つのものであるとか、一つのものではないとかという問題を超越している。
興奮に似た形で、すべての事物や現象の中に含まれている完成品は、一つのものではないとか、二つに分かれたものではないとかという問題を超越している。
第七章 綜合的な客観世界の検証
第一頌
もしも綜合的な客観世界が、この世の中に生まれて来たものであるとするならば、そこにおいては(生起、継続、消滅という)三種類の特徴によつて縛られている筈である。
しかしこの綜合的な客観世界は幸いにも、現に眼の前に現れている世界そのものであるから、単に外見的な特徴だけの世界であるということが、どうしてあり得よう。
第二頌
生起を始めとする(継続、消滅等の)三つのものは、個々ばらばらに切り離されたものであり、個々の性格を示すためには、あまり充分な表現ではない。
綜合的な客観世界の中に含まれているすべてのものは、恐らく一つの場所における存在であるということは云えるけれども、時間系列の中における存在であるとは云えない。
第三頌
生起、継続、消滅というような(時系列的な)経過とは異なつた事態が、綜合的な客観世界の特徴である。
不安定なこの世の中が実在している場合には、綜合的な客観世界とは異なるさまざまの事物も実在していない。
第四頌
生起、生起、そしてまた生起、根本的な生起と呼ばれるものは、そう大したものではない。
生起が生起を生み出す、それが生起であり、そしてさらに古代から伝えられて来たものが生まれて来る。
第五頌
生起、生起、そしてまた生起、現実的なものが根本的な生起に帰属している場合でも、
根本的なものによつて生み出されたものでないものが、現実的なものを作り出すのであり、その現実的なものが、将来更に具体的なものを作り出すということが、どうしてあり得よう。
第六頌
具体的なものが現実の世界において、根本的なものによつて生み出され、根本的なものとして作り出されていくとするならば、
根本的な具体的なものが、現実的なものによつて作り出されるのではないのであるが、現実的なものが何かによつて作り出されるということが、どうしてあり得よう。
第七頌
この世の中の現に現れつつある事態が既にあり、好ましい方向に向つて、具体化しつつある状態が、この世の中である。
現にこの世の中を好ましい方向に作り出そうとしているけれども、口では耳ざわりのよいことを云つているにも拘らず、それの実現していない状態が、この世の中である。
第八頌
光りは、主観的なものと客観的なものとの両方が一つに重なつた現実の事態として、その姿を見せている。
そこにおいては個々の現象が、主観的なものと客観的なものとの両方が一つに重なつた現実の事態として、眼の前に見えている。
第九頌
光の中に暗闇が実在している訳ではなく、その場合には正に暗闇がそこにあるだけのことである。
灯し火が何かを見せているということが、どうしてあり得よう。何故かというと、明るさが単に暗闇を破壊しているのに過ぎないのであるから。
第十頌
何かが現れつつあることによつて、あるいは光によつて、暗闇の破壊されるという事態が、どうしてあり得よう。
何かが見えているということは、暗闇ではないことを意味するのであるから、その場合には、光の存在というものに気が付く。
第十一頌
把握することのできない状態が、光りによつてもたらされる場合には、やはり破壊された状態が、暗闇であると云える。
何かが眼の前にあるということが、世界が存在している事を意味するのであるから、その状態をやがて暗闇が打ち消すということは、将来起こり得る。
第十二頌
光りが、主観的なものと客観的なものとが一つに重なつた現実を照らし出している場合には、
暗闇も同じように、主観的なものと客観的なものとが一つに重なつた現実の事態であつて、不明確なものでないことを将来に向つて堅持している。
第十三頌
新しく生まれて来たものがこの世の中ではなく、この世の中は現に眼の前にあるのであるから、この世の中が主観的な霊魂を生み出すということがどうしてあり得よう。
其処においては現に眼の前に現れているものが、既に生まれた状態の中で活躍しているのであつて、更に何かが生まれて来るということは絶対にあり得ない。
第十四頌
現に眼に前に現れていないものは、現象ではあり得ないのであるから、現に現れていないものはどのような意味から見ても、完全に何ものでもあり得ない。
この世の中は、言葉では表現することの出来ない何かとして存在しているのであつて、その実情に就いては第二章で説いた「行きつつある」、「行つた」、「まだ行つていない」という頭の中の判断と実際に行くという現実の行いとの違いと同じ説明方法を使つて、説明することが出来る。
第十五頌
現に現れつつあるという事実が既に始まつているのであるから、この世の中が近付いて来るということは、どんな場合でもあり得ない。
現に現れつつあるという事実が、何とかして明々白々とした結果を生み出すということが、どうしてあり得よう。
第十六頌
明々白々とした個々のものがそれぞれ存在し、それらの個々のものが静かな状態で、それぞれ本来の場所に存在している。
したがつてそれらは、現に生まれつつある状態であり、そこにおいては正に、落ち着いた状態を生起させつつある。
第十七頌
たまたま何も現れて来ないような状況の中では、どのような存在も綜合的に認識されることが全くない。
そこにおいては何かはつきりしないものの出現が期待されており、眼の前にあるものでさえ抽象的なものに見えてしまう。
第十八頌
現に眼の前に現れている事実そのものが、現象であるということが分かつて来ると、この綜合的な客観世界が正に現れて来る。
この世の中が現象として現れて来ると、現象がむしろ優先して捉えられる。
第十九頌
何かこの世の中とは違うものが、この世の中を生起させている場合には、
普通は発現しない筈のものが発現したことになり、そこにおいてはすべてのものが、作り出されてしまうことになる。
第二十頌
現に存在している状況に対応して、発生があつたのであり、存在していない状況から、何らかの拘束を受けるということはない。
存在しているとか存在していないとかという問題は、何かが現れて来る以前からあつた問題では決してない。
第二十一頌
自己管理された状況の中における生起は、単なる存在の中では生起しない。
実情が正に自己管理されていない状況の場合には、現実の存在の現れて来る筈がない。
第二十二頌
立ち止まらないということは、停止しないということであり、存在しているということは、立ち止まつているということである。しかし存在そのものが立ち止まるということはない。
立ち止まつている状態が、更に停止するということはあり得ないのであつて、何の姿もまだ見せていないものが、改めて停止するということが、一体どこにあり得よう。
第二十三頌
安定した状態は自己管理された状態の中に存在しているのであつて、存在(という抽象概念)の中に現れて来る訳ではない。
現に自己管理された状態の中にないものが、具体的な存在として姿を現わして来ることはない。
第二十四頌
老化や死はどんな場合でも、宇宙の秩序に従つており、すべての存在に従つている。
もしも老化や死というものがないならば、さまざまの存在は、一体どのようなものの中に確立されるのであろう。
第二十五頌
安定した状態に頼つている場合でも、そうでない状態に頼つている場合でも、安定した状態が確立されているかどうかという問題が、単に具体的な事実だけに左右されているということは決してない。
物事の現れ方に関連して、どんな現れ方をするかという問題は、人間の考え方だけで決まる訳でもないし、人間の考え方とは別の要素で決まる訳でもない。
第二十六頌
管理されていないものが管理されているということはないし、管理されているものが(更に)管理されるということもない。
そこにおいては、管理されている状態が既にあるだけのことであつて、まだ生まれていないものが管理されるということがどうしてあり得よう。
第二十七頌
ただ立ち止まつた形で存在している場合、自己管理は現れて来ない。
ただ立ち止まつている状態ではない形で存在している場合、自己管理が現れて来る。
第二十八頌
具体的な事実、したがつて眼の前に見えている状況そのものが、実際に自己管理されている訳ではない。
(しかしそれと同時に、)現状とは違う形で現れて来る状況が、別の状況として同じように自己管理されているということも決してない。
第二十九頌
全宇宙の出現が正に行われていない時点では、
全宇宙の自己管理が同じように現れている筈がない。
第三十頌
現実から遊離すればする程、存在の中における自己管理は現れて来ない。
存在は決してたつた一箇所だけにある訳ではないのであるから、存在しないという事実が姿を現わすことも決してあり得ない。
第三十一頌
現実的でないものが、実際に存在していなければ、自己管理が現れて来る。
二番目のものとか最高のものとかに属していない場合には、やはりばらばらの状態が見受けられる。
第三十二頌
自己管理は個人の主観的な心の働きによつて実現するものではないし、自己管理が客観的な霊魂の働きであるということもない。
そのような純粋な意味での現象そのものは、人間の主観的な心の働きに依存しているものでもなければ、客観的な霊魂の働きに依存しているものでもない。
第三十三頌
綜合的な客観世界は、生起、継続、消滅(という時間的な推移)の中には実在し得ないし、現実的でないものの中にも実在し得ない。
綜合的な客観世界に帰属し、まだ完成した状態に達していない場合でも、将来、綜合的な客観世界とは違う世界が完成されるであろうということは決してない。
第三十四頌
たとえば幻想であるとか、夢であるとか、ガンダルヴァと呼ばれる架空の都市とかは、
生起であるとか継続であるとか消滅であるとかと同じように、単に言葉による説明に過ぎない。
第八章 行為と動作との融合に関する検証
第一頌
現実にあるものが動作であり行為であつて、既に現実にあるものがこの世の中を作り出す訳ではない。
動作は抽象的なものでは絶対にあり得ないし、行為という抽象概念は、あくまでも抽象的な世界を追い求めるように宿命付けられている。
第二頌
現実の世界における実行が実際にない限り、行為という抽象概念は、恐らく現実の行いをしていることとは、何の関係もないであろう。
現実の世界における実行が実際にない限り、頭の中だけで行為をする人も、恐らく行為をすることと無関係になつてしまつているであろう。
第三頌
抽象的な世界が機能している場合には、行為や行為の実行も抽象的なものを作り出している。
理論的にはつきりしないものが行為として存在することがあり得るし、行為をする人も理論的にはつきりしないものも存在する可能性がある。
第四頌
真剣な態度がないと、行為が達成されたことを認識することができないし、行為の原因を認識することも全く不可能である。
真剣な態度がないと、現実の行いと行いの実行とが同じものであることが認識できず、行為の原因も認識することが全く不可能である。
第五頌
宇宙と宇宙でないものとが融合した現実の世界も、現実の行いその他が何も存在しない場合には認識することができない。
宇宙が現実的なものでなく、宇宙以外の世界も現実的なものでない場合には、結果も具体的に作り出されたものとして認識されることがない。
第六頌
結果という考え方にとらわれていなければ、自由自在の境涯を掴むということもありえないし、天国に近ずくということも起こり得ない。
道義がすべての行為の実行の中に含まれている場合には、目的という考え方の否定に固執し過ぎることも。一種のこだわりである。
第七頌
行為の実行は、具体的な世界と抽象的な世界とが一つに重なつた現実の世界そのものであつて、具体的なものと抽象的なものとが一つに重なつた現実が、行為の実行を作り出すということではない。
(具体的なものと抽象的なものとの)二つのものの対立している状態が現実そのものであるから、抽象的なものだけが単独に存在するという事実は何処にもあり得ない。
第八頌
抽象的なものが具体的なものによつて作られるということは絶対にないし、具体的なものが抽象的のものによつて作られるということも絶対にない。
何故かと云うと、この地上におけるさまざまの悪徳でさえも全て、それを実行する人に依存して正に具体化されているのであるから。
第九頌
抽象的な世界でもなく、具体的な世界でもなく、正に抽象的な世界と具体的な世界とが一つに重なつた現実の世界である。
言葉を使つて説明したり、あるいは頭を使つて考えたりする以前から、動作は行為として既に
実行されている。
やさしい[中論」
第一章 正しい教えの検証
第一頌
主観的なものではない。客観的なものでもない。(主観的なものと客観的なものとの)混合物でもない。しかし、理屈に合わないものでは決してない。
眼の前の事実が、その侭見えて居るだけの事であつて、何かが何処かに存在しているという事でもなければ、何かであるという事でもない。
第二頌
四つの正しい教えとは、宇宙に漲つている理性と、客観的な外界の世界と、行為の行われる現在の瞬間と、
そして現に眼の前に見えている、神のようにさえ見える現実そのものである。そして正しい教えとして五番目のものは、決して存在しない。
第三頌
主観的な存在である思想は、様々の存在の中や様々の正しい教えの中では,認識することが出来ないのであるから、
主観的な存在である思想の実在が認識出来ない以上、客観的な存在としての感覚的な刺激も,認識の対象と成る事が在り得ない。
第四頌
行いは正しい教えの類似品ではなく、正しい教えの類似品ではない正しい教えそのものが、行いである。
さまざまの正しい教えが行いの類似品であるということでは決してなく、偶々行いに似たものが実際に、実在しているだけの事である。
第五頌
明々白々とした様々の事物が現れており、そのようにして様々の事物が、様々の教えとして示されている。
様々の事物がこの世の中に現れて来ない場合には、その度合いに応じて様々の正しい教えも、全く訳の分からないものになつてしまう。
第六頌
抽象的なものの場合であろうと、具体的な物の場合でであろうと,正しい教えは,それ以外の目的の為に縛られていることが決してない。
抽象的なものは、どのような意味で正しい教えなのであろうか。具体的なものは、どのような意味に於いて,正しい教えに依存しているのであろうか。
第七頌
安定しているものと、安定していないものとが融合し、具体的なものと抽象的な物とが融合した宇宙が、現れていない場合には、
どうして何かが起こるという事があり得よう。何故ならばその場合には,理性でさえも実際問題として、具体的なものによつて縛られてしまつているから。
第八頌
単に物質的な世界とは違う世界がこの世の中である場合,現実的な宇宙が見えて来る。
現に物質的な世界とは違う宇宙の中に在りながら、更に物質的な世界の存在する可能性が何処に在り得よう。
第九頌
宇宙がまだ現れて来ない段階で、行為を規制する自己管理の能力が現れて来るということはあり得ない。
絶え間なく動く心の働きが抑制されていない場合、正しい教えが満ち溢れているということは、絶対にあり得ない。
第十頌
さまざまの存在の中においては、したがつてさまざまのこれと云つた特徴を持たない存在の中においては、現実が一つの固定的なものとして認識されることがない。
現実のこの世の中が、それ自体として存在するということは、現に具体的なものが、眼の前に現れて居るということでは決してない。
第十一頌
個々バラバラのものと抽象的な綜合とが一つに重なつている場合、したがつて正しい教えが現実のものとなつている場合には,具体的な結果が実在であるという事は決してあり得ない。
そのような事態が正しい教えから生まれて来るという事が,どうしてあり得よう。そのような事態が正しい教えに基ずいて期待されるということは、全くあり得ない。
第十二頌
そこに於いては、現実的なものやそして更に具体的なものが、具体的なものや正しい教えと一緒になつて前進する。
或は多少疑わしい根拠に従つたり,或は何の根拠も持たずに、結果が他のものに先立つて先行すると云うことはない。
第十三頌
結果という考え方は、正しい教えを傷つけるけれども、それと同時にさまざまの正しい教えは、無能な人々にとつて苦しみの種である。
結果という考え方は、確かに無能な人々を惑わす考え方ではあるけれども、それが直ちに正しい教えを傷つけるということが、どうしてあり得よう。
第十四頌
したがつて正しい教えを傷つける力もなく、正しくない教えを傷つける力も無いものが,結果である。
結果と呼ばれるものが、実在ではないと云う事を否定した場合,正しい教えと正しくない教えとが混然一体
となつた現実を、一体何処に発見する事が出来るであろう。
第二章 「行つた」、[まだ行つていない」の検証
第一頌
「行つた」(という追憶)が実際に行くことはないし、それと同じように「まだ行つていない」(という想像)が実際に行くということも決してない。
「行つた」(という追憶)とか「まだ行つていない」(という想像)とは別の「行きつつ在る」(という現在の瞬間における認識)も、実際に行くということとは別である。。
第二頌
手足の動きが行くという現実の動きである場合には、その手足の動きは常に[行きつつある」という現実の行いそのものである。
手足の動きが「行つた」(という追憶)とか「まだ行つていない」(という想像)とかと違う場合には,行くという動きは常に「行きつつ在る」という現在の瞬間における事実と同じである。
第三頌
現実の行いが現に実行されている場合には、それを言葉で表わすことが、どうして出来よう。
現に実行されている[行く」という行いが、二つに分裂しているという事態は,決して起こり得ない。
第四頌
行きつつ在るという状態の中における行くという行いは、行きつつ在るという状態と行くという現実の行いとが、相互にしつかりと結び付いている。
行くという動きを離れて、行きつつ在るという状態が動くのである。何故かというと、行きつつ在るという状態は,行かされているという事が実情であるから。
第五頌
行きつつ在るという状態にこだわるか、行くと云う現実の行いにこだわるかが、現実の行くと云う行いにおける二つの問題点である。
その行くという現実の行いに依存して、眼の前の行きつつ在るという状態があり、それと同時にその場に現実としてあるものが,やはり行くという現実の行いである。
第六頌
行くという事態が二つに分けられて居るということは、固定観念の影響を受けていると云う事であり、行くと云う現実の行いを二つに分けることも、こだわりである。
何故ならば、行く人という考え方さえ、非難の対象となつているのであるから、行くという現実の行いが、姿を現わして来る筈がない。
第七頌
行く人という概念が非難の対象となつている場合、現実に行くという行いは現れて来る筈がない。
其処に於いては,行く人という概念は、行くという現実の行いの中には存在しないのであるから、そのような概念が、将来何処に存在するという事がどうしてあり得よう。
第八頌
行くという動きが行くのではないのと同じように、行かないという動きも当然行くということがない。
行くという動きと違う動きが行かないという動きであつて,(行くという動きと行かないという動きの他に)三番目のものが行くということも実際には決してあり得ない。
第九頌
行くという動きがほんの僅かでも行くということが、将来といえどもどうしてあり得よう。
現実の行くという行いがない限り、行く人という概念が現れて来るということは、どんな時でも絶対にあり得ない。
第十頌
行く人と行くという動きとのどちらか一方が行くという考え方は、両方ともこだわり過ぎている。
行くという現実の行いも行く人も両方とも無い場合には、行く人を離れた行くという現実の行いは、単なる願望に過ぎない。
第十一頌
行くという現実の行いにおける二つの要素に、執着させられ過ぎている場合には、単純に行く人そのものが前進する。
その場合行く人という概念は、何かはつきりしないものによつて誘導されている。具体的には行く人という何かはつきりしないものが、前に進んでいるのである。
第十二頌
行くという現実の行いは「行つた」という追憶の中に生まれる筈がないし、行くという現実の行いは[まだ行つていない」という想像の中にも生まれる筈がない。
行くという現実の行いは「行きつつある」という認識の中にも生まれる筈がないのであるから、行くという現実の行いの始期を特定することはできない。
第十三頌
行くという現実の行いが実行される以前で、まだ何もない場合には、「行きつつある」(という認識)もないし、「行つた」(という追憶)もない。
そのような状況の中で、行くという現実の行いが始まるのであつて、行くという現実の行いが、「まだ行つていない」(という想像)の中にあるということが、何処にあり得よう。
第十四頌
「行つた」(という追憶)も、[行きつつある」(という認識)も、「まだ行つていない」(という想像)も、何か別のものとは入れ替えることの出来ない(独自の)の存在である。
其処においては一切のものに関連して、眼では見る事の出来ない思想というものが、行くという現実の行いに関連して、開始される。
第十五頌
行く人が停止していないのと同じように、行かない人も停止している訳では決してない。
行く人でもなく行かない人でもない第三番目の人が、現実に停滞するというようなことが、どうしてあり得よう。
第十六頌
行く人と同じように、この世の中の一切のものは、停滞するという事が決して起こり得ないのである。
行くという現実の行いが実在しない場合には、行く人が具体的に姿を現わして来るということも、決して起こり得ないのである。
第十七頌
現に行きつつあるという状態から切り離した場合、停滞という事実は起こらない。それと同じように「もう行つた」とか、「まだ行つていない』と云う状態を離れて、停滞という事象が起こるという事もあり得ない。
行くという現実の行いは、事実の発生である。そしてそれと同じように、消滅するという事も事実の発生であり、行くという動きも事実の発生である。
第十八頌
そのような事態が、正に行くという動きに依存した行くという現実の行いであり、事実に対するそのような考え方は、決してそうこだわつたものではない。
それ以外の場合でも、行くという動きに関係しており、そのように行くという動きに関係させた考え方も、決してこだわつた考え方ではない。
第十九頌
そのように行くという動きが行くという現実の行いを実際に作り出して行くことが、現実の問題として起こり得るのであるから、その際には、
(行くという動きと行くという現実の行いとが、)たつた一つのものに纏まることであり、それは正に実行することと実行そのものとが、全く一つのものとして重なつていることである。
第二十頌
また別の捉え方として、行くという事実と行くという動きとが、交互に入れ替わると考える場合には、
行くという現実の行いは恐らく行くという事実を度外視して動くのであろうし、行為をする人も恐らく行くという現実の行いを度外視して動くのであろう。
第二十一頌
また(行くという動きと行くという現実の行いとが、)一つに纏まることが目的の達成であつて、二つの種類に分裂していることは、やはり(行くという動きと行くという現実の行いとが、)二つのものに分裂していることを意味する。
二つのものの分裂が、認識できない状態の中に、目的を達成した状態があるのであるけれども、そのことの認識されるということが、現に実際問題としてはあり得ない。
第二十二頌
行くという動き自身に依存して、行くという動きが行くという動きを推進させるのであつて、行くこと自体が、実際に行くこと自体を行かせるということはない。
したがつて、行くということ自体が実在していない以前に、何か容れ物のようなものを、何かが動かすというようなことはない。
第二十三頌
行くという動き自身に依存して、行くという動きが行くという事実を推進させるのであつて、行くという動きが、何か別のものを動かすということではない。
行くという動きが、二重に現れて来るという訳ではなく、したがつて私は行くという動きが、一つに結び付いていることを想定している。
第二十四頌
現実の世界と、往くという現実の行いと、往く人という三つのものが、動く訳ではない。
抽象的な世界と往くという現実の行いとが、一つのものであるということは、絶対にあり得ないのであるから、三つのものが、たつた一つの現実として行くのである。
第二十五頌
行くという現実の行いと、現実の世界と、抽象的な世界という三つのものが、前進する訳ではない。
したがつて行くという具体的な動作と、行きつつある人と、行きつつある状態とは、決して認識の対象とはならない。
第三章 眼その他の感覚器官の検証
第一頌
見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れること、そして感覚中枢の働き、
これら六種類の感覚作用が身近にあり、見られたものその他が、その対象となつている。
第二頌
自分自身の心の働きが、見るという働きを作り出すのであるから、自分自身の心の働きも、見るという働きも、見られる対象となることはない。
そのような自分の心が、見られる対象となることはない。そのような自分の心は、見られるということがないのであり、そのような心が、正反対のものとして見られるということが、将来といえども、どうしてあり得よう。
第三頌
われわれが直接掴むものは、火のように眼で見えるものでもなければ、視覚に関連したものでもなく、完成されたものでもない。
現実の知覚は、既に具体的に[行きつつある」、「行つた」、「まだ行つていない」という表現を使つて、述べた処である。
第四頌
貴方自身が、自分で見るという考えを拒否するならば、その場合には見るという行為が、何処にあり得よう。
視覚そのものが、見られることがあるかどうかということを考えた場合、そのようなことが起こり得ると考えることは、あまりにもこだわり過ぎている。
第五頌
見る働きが、何かによつて見られるということは絶対にあり得ないし、見ていない状態が見られるということも決してあり得ない。
物事を見ることによつて、詳細な説明をすることは出来るけれども、物事を見る働きというものは、正にその物事(の本質に触れるということではなし)に、ただ接近しているということにしか過ぎない。
第六頌
物事を見る働きは、常に軽視されないとは限らない。軽視するということも、やはり一つのものの見方である。
さまざまの事物が見えているという事実と、見るという働きとは、正に一つのもの(の裏表)であつて、現実的なものが、見る人なしに存在するということが、どうしてあり得よう。
第七頌
見られたものと見る働きとが一つに重なつた(現実)などというものは、あり得ないという考え方から抜け出した時に、思考その他の四種類のもの(思考、感受、行い、現実)が実在する。
この世の中の一切の現象その他が全て実在しないとするならば、将来といえども何が一体存在すると云えるであろう。
第八頌
(物事を見る場合と同じように)聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れること及び感覚中枢についても、説明することができる。
聞く人その他や聞かれた対象その他についても、やはり見ることを母型として、(説明できる点では)同じである。
第四章 集合体の検証
第一頌
外見と本質とが別々になつている場合には、外見そのものも(本当の意味で)見えて来ない。
外見があることによつて(外見と本質とが)別々に見えて来るという訳では決してなく、外見と本質とは(何時も)一体となつて見えているものである。
第二頌
外見と本質とが別々になつている場合には、外見と外見だけとしてしか見えて来ない。
結果を齎さないような物が、目的として実在することはあり得ない。不合理なものの存在するということが、どうしてあり得よう。
第三頌
外見という考え方のために(外見と本質とが)別々に見える場合でも、恐らく(現実の世界では)外見と本質とは一つのものであろう。
およそこの世の中にはあり得ないような不合理なものが、本質として見える場合には、恐らくその不合理なものも本質も、実在ではないのであろう。
第四頌
本質が、外見上はつきり見える形で、または外見に含まれた形で、この世の中に現れて来るということはない。
本質が、外見上はつきりとは見えない形で、または外見に含まれていない形で、この世の中に現れて来るということもない。
第五頌
何の根拠も持たないものが、再度外見としてこの世の中に姿を現わすということは、決して決してあり得ない。
したがつて、外見というものが、姿を現わして来ないことがあり得るし、転換が実際に行われるということを、期待することも不可能である。
第六頌
偽物が、作られたものの中に見当たらない場合にも、本当の業績が、姿を現わして来る。
偽物でないものが、作られたものの中に見当たらない場合にも、実際の状況は、誰の眼にも見えて来る。
第七頌
何かを探究しようとする意図は、さまざまの綜合的な明確な理解の中にある。それは完全なものを作り出すことであり、全般的に見通すことである。
一切のものに対する探究は、正にさまざまの存在の中にあり、外見的なものを拠り処として一切のものが前進する。
第八頌
孤立している状態は、敬遠の対象となり、均衡によつて作り出された静けさが、議論の対象となる。
すべてのものは、孤立した状態ではなく、一切のものが自己管理された状態から生まれて来る。
第九頌
他人に対して欠点を説明する場合でも、均衡した状態で話をするならば、よく説明することができる。
全てのことについて、その人が非難されなければならない事情を何も持つていない場合には、一切のものがよく管理された状態の中で具体化する。
第五章 物質的な要素の検証
第一頌
空間とその特徴とが一体となる以前においては、空間と呼ばれるものは全く認識の対象とならない。
特徴を持たないものが現れているということは、おそらく特徴というようなものから抜け出す以前の(現実の)状態であろう。
第二頌
何の特徴も見当たらない場合には、存在が具体的な何かとして、綜合的に見えている。
特徴が、前進するという状態を作りながら、特徴を持たない実在として存在している。
第三頌
特徴が、前進するという状態を作りながら、特徴を持たない実在として存在している。
特徴のない状態に帰属せず、特徴の中に含まれている前進は、(前進するという)それ自身以外の特徴の中には、絶対に含まれていない。
第四頌
特徴が現れていない状況の中では、その特徴が認識されるということも決してあり得ない。
特徴そのものが認識されていない場合には、特徴そのものが存在するということも、決してあり得ない。
第五頌
したがつて、特徴の認識が気付かれない場合には、特徴の存在が認識されるということも決してあり得ない。
特徴の認識と特徴そのものとが個々ばらばらの場合には、存在そのものの認識されるということ自体もあり得ない。
第六頌
存在するのかどうかさえはつきりしないような状況の中で、存在しないという主張が、将来といえども何処にあり得よう。
存在するとか存在しないとかという議論は、宇宙の秩序に反して居り、存在するとか存在しないとかという議論が、何らかの役に立つなどということがどうしてあり得よう。
第七頌
したがつて(物質は)存在するものでもなければ、存在しないものでもなく、特徴そのものでもなければ、特徴の内容でも絶対にない。
空間や空間に準ずるさまざまの物質は、五種類の物質であり、それらは個々に独立したものでもある。
第八頌
現実が様々のものとして正に見えているにも拘らず、それらの(実在を否定する)愚かな人々は、決して現実的ではない。
それらの人々はさまざまのの存在の中に、静かな恵み深いものを見ることをしない。
第六章 興奮と感受された物との融合に関する検証
第一頌
(現実が)興奮という抽象概念を離れて存在する以前から、感受されたものが興奮という抽象概念を無視して存在している。
その感受されたものが興奮そのものとしてはつきりと存在し、興奮が感受されたものの中に実在として存在することが可能である。
第二頌
興奮が、感受されたものの中における現実の実在ではないというような事態が、将来といえども一体何処にあり得よう。
具体的な場合であろうと抽象的な場合であろうと、興奮や感受されたものの中において起こるすべての実情は、平坦なものであり現在の瞬間における過程である。
第三頌
現実に眼の前に現れているという事実が、正に強力な実情であるから、興奮と感受されたものとの結合は、強制されたものではない。
興奮と感受されたものとの結合は、存在することの望ましい状態であるから、興奮と感受されたものとが、相互に気付いていないということが、相互の関係である。
第四頌
一つでない性質の中に、不可分の性質があるという事実は、実在することがない。
個々ばらばらの性質の中に、一つにまとまつた性質が現存するという状態は、将来といえども、何処にも存在する可能性が全くあり得ない。
第五頌
たつた一つの性質の中に、一つにまとまつたものが内在している場合には、恐らく補助的なものが何もなしに、実体だけがあるということであろう。
さまざまの異なつた性質の中に、たつた一つのものがある場合でも、恐らく補助的なものが何もなしに、現物だけが存在するということであろう。
第六頌
一つにまとまつたものが、仮に個々ばらばらのものでもあり得るとした場合、興奮と感受されたものとの結合は、一体どんなものを意味するのであろう。
完成されたものが、個々ばらばらのものでもあり得るとした場合、たつた一つにまとまつたものが、たつた一つのものであり得ると同時に、個々ばらばらのものでもあり得るということになる。
第七頌
完成されたものが、個々ばらばらの存在でもあり得る場合には、統一されたものと個々ばらばらの存在とが両方とも、興奮と感受された内容とが一つに重なつた状態の中にあり得る。
君は一体どんな目的で、一つの存在を二つの在り方の中に固定させようとしているのであろうか。
第八頌
個々ばらばらのものは、完成されたものとは考えられない処から、君は単に一つにまとまつたものを作り上げることをためらつている。
一つにまとまつたものを作り上げることが目標であるから、君は先ず個々ばらばらのものを作り出すことに熱中している。
第九頌
個々ばらばらの状態は、完成されたものであるとは云えない。したがつて唯、一緒にあるということだけでは、完成されたものであるとは云えない。
一体、何が個々ばらばらの存在としてあるということがあり得よう。しかし君は唯、一緒にあるということだけを乞い願つている。
第十頌
このように感受されたものに依存したり、興奮そのものに含まれた形での完成品は、一つのものであるとか、一つのものではないとかという問題を超越している。
興奮に似た形で、すべての事物や現象の中に含まれている完成品は、一つのものではないとか、二つに分かれたものではないとかという問題を超越している。
第七章 綜合的な客観世界の検証
第一頌
もしも綜合的な客観世界が、この世の中に生まれて来たものであるとするならば、そこにおいては(生起、継続、消滅という)三種類の特徴によつて縛られている筈である。
しかしこの綜合的な客観世界は幸いにも、現に眼の前に現れている世界そのものであるから、単に外見的な特徴だけの世界であるということが、どうしてあり得よう。
第二頌
生起を始めとする(継続、消滅等の)三つのものは、個々ばらばらに切り離されたものであり、個々の性格を示すためには、あまり充分な表現ではない。
綜合的な客観世界の中に含まれているすべてのものは、恐らく一つの場所における存在であるということは云えるけれども、時間系列の中における存在であるとは云えない。
第三頌
生起、継続、消滅というような(時系列的な)経過とは異なつた事態が、綜合的な客観世界の特徴である。
不安定なこの世の中が実在している場合には、綜合的な客観世界とは異なるさまざまの事物も実在していない。
第四頌
生起、生起、そしてまた生起、根本的な生起と呼ばれるものは、そう大したものではない。
生起が生起を生み出す、それが生起であり、そしてさらに古代から伝えられて来たものが生まれて来る。
第五頌
生起、生起、そしてまた生起、現実的なものが根本的な生起に帰属している場合でも、
根本的なものによつて生み出されたものでないものが、現実的なものを作り出すのであり、その現実的なものが、将来更に具体的なものを作り出すということが、どうしてあり得よう。
第六頌
具体的なものが現実の世界において、根本的なものによつて生み出され、根本的なものとして作り出されていくとするならば、
根本的な具体的なものが、現実的なものによつて作り出されるのではないのであるが、現実的なものが何かによつて作り出されるということが、どうしてあり得よう。
第七頌
この世の中の現に現れつつある事態が既にあり、好ましい方向に向つて、具体化しつつある状態が、この世の中である。
現にこの世の中を好ましい方向に作り出そうとしているけれども、口では耳ざわりのよいことを云つているにも拘らず、それの実現していない状態が、この世の中である。
第八頌
光りは、主観的なものと客観的なものとの両方が一つに重なつた現実の事態として、その姿を見せている。
そこにおいては個々の現象が、主観的なものと客観的なものとの両方が一つに重なつた現実の事態として、眼の前に見えている。
第九頌
光の中に暗闇が実在している訳ではなく、その場合には正に暗闇がそこにあるだけのことである。
灯し火が何かを見せているということが、どうしてあり得よう。何故かというと、明るさが単に暗闇を破壊しているのに過ぎないのであるから。
第十頌
何かが現れつつあることによつて、あるいは光によつて、暗闇の破壊されるという事態が、どうしてあり得よう。
何かが見えているということは、暗闇ではないことを意味するのであるから、その場合には、光の存在というものに気が付く。
第十一頌
把握することのできない状態が、光りによつてもたらされる場合には、やはり破壊された状態が、暗闇であると云える。
何かが眼の前にあるということが、世界が存在している事を意味するのであるから、その状態をやがて暗闇が打ち消すということは、将来起こり得る。
第十二頌
光りが、主観的なものと客観的なものとが一つに重なつた現実を照らし出している場合には、
暗闇も同じように、主観的なものと客観的なものとが一つに重なつた現実の事態であつて、不明確なものでないことを将来に向つて堅持している。
第十三頌
新しく生まれて来たものがこの世の中ではなく、この世の中は現に眼の前にあるのであるから、この世の中が主観的な霊魂を生み出すということがどうしてあり得よう。
其処においては現に眼の前に現れているものが、既に生まれた状態の中で活躍しているのであつて、更に何かが生まれて来るということは絶対にあり得ない。
第十四頌
現に眼に前に現れていないものは、現象ではあり得ないのであるから、現に現れていないものはどのような意味から見ても、完全に何ものでもあり得ない。
この世の中は、言葉では表現することの出来ない何かとして存在しているのであつて、その実情に就いては第二章で説いた「行きつつある」、「行つた」、「まだ行つていない」という頭の中の判断と実際に行くという現実の行いとの違いと同じ説明方法を使つて、説明することが出来る。
第十五頌
現に現れつつあるという事実が既に始まつているのであるから、この世の中が近付いて来るということは、どんな場合でもあり得ない。
現に現れつつあるという事実が、何とかして明々白々とした結果を生み出すということが、どうしてあり得よう。
第十六頌
明々白々とした個々のものがそれぞれ存在し、それらの個々のものが静かな状態で、それぞれ本来の場所に存在している。
したがつてそれらは、現に生まれつつある状態であり、そこにおいては正に、落ち着いた状態を生起させつつある。
第十七頌
たまたま何も現れて来ないような状況の中では、どのような存在も綜合的に認識されることが全くない。
そこにおいては何かはつきりしないものの出現が期待されており、眼の前にあるものでさえ抽象的なものに見えてしまう。
第十八頌
現に眼の前に現れている事実そのものが、現象であるということが分かつて来ると、この綜合的な客観世界が正に現れて来る。
この世の中が現象として現れて来ると、現象がむしろ優先して捉えられる。
第十九頌
何かこの世の中とは違うものが、この世の中を生起させている場合には、
普通は発現しない筈のものが発現したことになり、そこにおいてはすべてのものが、作り出されてしまうことになる。
第二十頌
現に存在している状況に対応して、発生があつたのであり、存在していない状況から、何らかの拘束を受けるということはない。
存在しているとか存在していないとかという問題は、何かが現れて来る以前からあつた問題では決してない。
第二十一頌
自己管理された状況の中における生起は、単なる存在の中では生起しない。
実情が正に自己管理されていない状況の場合には、現実の存在の現れて来る筈がない。
第二十二頌
立ち止まらないということは、停止しないということであり、存在しているということは、立ち止まつているということである。しかし存在そのものが立ち止まるということはない。
立ち止まつている状態が、更に停止するということはあり得ないのであつて、何の姿もまだ見せていないものが、改めて停止するということが、一体どこにあり得よう。
第二十三頌
安定した状態は自己管理された状態の中に存在しているのであつて、存在(という抽象概念)の中に現れて来る訳ではない。
現に自己管理された状態の中にないものが、具体的な存在として姿を現わして来ることはない。
第二十四頌
老化や死はどんな場合でも、宇宙の秩序に従つており、すべての存在に従つている。
もしも老化や死というものがないならば、さまざまの存在は、一体どのようなものの中に確立されるのであろう。
第二十五頌
安定した状態に頼つている場合でも、そうでない状態に頼つている場合でも、安定した状態が確立されているかどうかという問題が、単に具体的な事実だけに左右されているということは決してない。
物事の現れ方に関連して、どんな現れ方をするかという問題は、人間の考え方だけで決まる訳でもないし、人間の考え方とは別の要素で決まる訳でもない。
第二十六頌
管理されていないものが管理されているということはないし、管理されているものが(更に)管理されるということもない。
そこにおいては、管理されている状態が既にあるだけのことであつて、まだ生まれていないものが管理されるということがどうしてあり得よう。
第二十七頌
ただ立ち止まつた形で存在している場合、自己管理は現れて来ない。
ただ立ち止まつている状態ではない形で存在している場合、自己管理が現れて来る。
第二十八頌
具体的な事実、したがつて眼の前に見えている状況そのものが、実際に自己管理されている訳ではない。
(しかしそれと同時に、)現状とは違う形で現れて来る状況が、別の状況として同じように自己管理されているということも決してない。
第二十九頌
全宇宙の出現が正に行われていない時点では、
全宇宙の自己管理が同じように現れている筈がない。
第三十頌
現実から遊離すればする程、存在の中における自己管理は現れて来ない。
存在は決してたつた一箇所だけにある訳ではないのであるから、存在しないという事実が姿を現わすことも決してあり得ない。
第三十一頌
現実的でないものが、実際に存在していなければ、自己管理が現れて来る。
二番目のものとか最高のものとかに属していない場合には、やはりばらばらの状態が見受けられる。
第三十二頌
自己管理は個人の主観的な心の働きによつて実現するものではないし、自己管理が客観的な霊魂の働きであるということもない。
そのような純粋な意味での現象そのものは、人間の主観的な心の働きに依存しているものでもなければ、客観的な霊魂の働きに依存しているものでもない。
第三十三頌
綜合的な客観世界は、生起、継続、消滅(という時間的な推移)の中には実在し得ないし、現実的でないものの中にも実在し得ない。
綜合的な客観世界に帰属し、まだ完成した状態に達していない場合でも、将来、綜合的な客観世界とは違う世界が完成されるであろうということは決してない。
第三十四頌
たとえば幻想であるとか、夢であるとか、ガンダルヴァと呼ばれる架空の都市とかは、
生起であるとか継続であるとか消滅であるとかと同じように、単に言葉による説明に過ぎない。
第八章 行為と動作との融合に関する検証
第一頌
現実にあるものが動作であり行為であつて、既に現実にあるものがこの世の中を作り出す訳ではない。
動作は抽象的なものでは絶対にあり得ないし、行為という抽象概念は、あくまでも抽象的な世界を追い求めるように宿命付けられている。
第二頌
現実の世界における実行が実際にない限り、行為という抽象概念は、恐らく現実の行いをしていることとは、何の関係もないであろう。
現実の世界における実行が実際にない限り、頭の中だけで行為をする人も、恐らく行為をすることと無関係になつてしまつているであろう。
第三頌
抽象的な世界が機能している場合には、行為や行為の実行も抽象的なものを作り出している。
理論的にはつきりしないものが行為として存在することがあり得るし、行為をする人も理論的にはつきりしないものも存在する可能性がある。
第四頌
真剣な態度がないと、行為が達成されたことを認識することができないし、行為の原因を認識することも全く不可能である。
真剣な態度がないと、現実の行いと行いの実行とが同じものであることが認識できず、行為の原因も認識することが全く不可能である。
第五頌
宇宙と宇宙でないものとが融合した現実の世界も、現実の行いその他が何も存在しない場合には認識することができない。
宇宙が現実的なものでなく、宇宙以外の世界も現実的なものでない場合には、結果も具体的に作り出されたものとして認識されることがない。
第六頌
結果という考え方にとらわれていなければ、自由自在の境涯を掴むということもありえないし、天国に近ずくということも起こり得ない。
道義がすべての行為の実行の中に含まれている場合には、目的という考え方の否定に固執し過ぎることも。一種のこだわりである。
第七頌
行為の実行は、具体的な世界と抽象的な世界とが一つに重なつた現実の世界そのものであつて、具体的なものと抽象的なものとが一つに重なつた現実が、行為の実行を作り出すということではない。
(具体的なものと抽象的なものとの)二つのものの対立している状態が現実そのものであるから、抽象的なものだけが単独に存在するという事実は何処にもあり得ない。
第八頌
抽象的なものが具体的なものによつて作られるということは絶対にないし、具体的なものが抽象的のものによつて作られるということも絶対にない。
何故かと云うと、この地上におけるさまざまの悪徳でさえも全て、それを実行する人に依存して正に具体化されているのであるから。
第九頌
抽象的な世界でもなく、具体的な世界でもなく、正に抽象的な世界と具体的な世界とが一つに重なつた現実の世界である。
言葉を使つて説明したり、あるいは頭を使つて考えたりする以前から、動作は行為として既に
実行されている。
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