2005年12月6日火曜日

行いの哲学 (実存主義)

この行いの哲学という用語は、私の仏教講話を長年に亘つてお聞きになつた方以外の方々にとつては、耳慣れない言葉であると思われる。何故かと云うとこの行いの哲学という言葉は、私が数十年に亘つて仏教哲学を勉強して来た結果、仏教哲学の中に人間の行いについて、観念論や唯物論とは根本的に違う考え方があるけれども、その仏教独特の行いに関する考え方と非常に類似した考え方が、欧米の哲学の中でも、19世紀の中頃から出始めている所から、洋の東西を問わず人間の行いに関連して、従来の観念論や唯物論とは違う考え方で起こり始めている。
その先駆者は恐らくデンマークの哲学者であるキールケゴールであろう。彼は熱心なキリスト教徒であつたが、当時全盛を極めていた唯物論の勢いを眺めながら、近い将来キリスト教信仰が消滅するのではないかと云う危惧を感じ、何とかしてキリスト教信仰を存続させたいという考え方から,現在の瞬間における人間の存在を出發として、観念論にも唯物論にも属さない新しい哲学を樹立した。これが後に実存主義と呼ばれるようになつた新しい哲学の出發点である。この考え方はやがてドイツのニーチェの思想の中に現れてきた。彼はまだ観念論にも唯物論にも災いされていなかつた古代ギリシャ文明の中に見られた人間の自主的な行いを尊重し、人間の行いの中に見られる尊厳さに着目した。更にドイツのおけるヤスパースやハイデツカ−の理論的な努力が、彼らの哲学水準を高め、一派の哲学を形成するようになつたけれども、この流れもやはり、人間の現在における行いを基準にした哲学と云える。特にハイデツカ−は、[時間と存在」という著作を通じて。行いの実際に行われる現在の瞬間を問題にしているが、この一連の思想もやはり行いの哲学と見なすことが出来るであろう。