2005年12月2日金曜日

観念論と唯物論の否定

(おことわり)このブログにおいては、サンスクリツトの原語を表記する場合に、通常われわれが使つているパラサン・ローマンという表記法を使う事なく,単純にローマ字による表記法を採用して、無用の文字化けを防ぐことにしたいと思います。

仏教または仏道が、この世の中の実在を信ずる宗教であるとすると、其の事は仏教が欧米の社会で非常に發達した観念論と唯物論とを共に否定した考え方であるという主張が、登場して来ざるを得ない。事実、明治維新以前に仏教を勉強され、後に総持寺の貫主さんをされた西有穆山禅師は、「正法眼蔵啓廸」という著作の中で、「断見外道と常見外道とは、佛法の敵じや」と云われている。このことは、明治維新以前の仏教においては,唯物論と観念論とが佛教とは完全に世界観を殊にする考え方である事が,明確に認識されていた。しかし明治維新以降になると、ある非常に有名な大学教授が,「仏教唯心論」という書物を書いておられる。そしてこのことは、明治維新以降の仏教学においては、佛教思想は当然観念論思想であり、それ以外の想定を考える必要はないという考え方があつたのではないかと心配される。何故かというと断見外道とは、uccheda-drstiの事であるから唯物論を意味し、常見外道はsasvata-drstiの事であるから、観念論の事を意味するからである。