2005年12月3日土曜日

観念論と唯物論の再評価(1)

仏教が観念論の立場を批判し、唯物論の立場を批判しているからといつて、人類の歴史における観念論と唯物論の価値を低く見る事は許されない。何故ならば、観念論も唯物論も人類の歴史の中で偉大な役割を果たし、その結果、今日われわれが享受している偉大な文化があるからである。
先ず観念論であるが、その発生は人類の発生と同じ時期まで遡ると考えられるのであるが、歴史的に見た場合でも、少なくとも古代ギリシヤの時代まで遡る。紀元前5世紀から4世紀にかけてプラトンという哲学者が活躍したが、彼はこの世の中が理性的な存在であり,宇宙を支配している理性其のものが、実在である事を主張し、我々の眼の前に見えている感覚的な世界は、理性から生まれた幻影に過ぎないという主張をし、その証拠として数学の理論が宇宙の隅々まで行き渡つていることを主張した。したがつて彼はこの世の中の一切が、人間の理性によつて解明出来る事を主張し、その弟子であるアリストテレースも同じように人間の理性的な思考により、一切の事柄を人間の思考を通じて解明することを、哲学の任務とした。この考え方はやがてローマに伝わつたが、さらにローマ帝国の末期に,中近東から流れて来ていたキリスト教信仰と出会つた。教父時代における代表的な神学者である聖アウグステイヌスは、プラトンの思想がその基礎となついると云われており、また中世における最大の神学者とされているトマス・アクイナスは、アリストテレースの思想に依拠していると云われている。また大陸合理論と呼ばれるデカルト、スピノーザ、ライプニツなどの思想家の中にも、観念論の影響が見られる。そしてその後にドイツで生まれたカント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどのドイツ観念論においては、イギリスにおける人間の感覚的な働きを重要視した経験論に対比して、人間の理性的思考に対する重要性が強調された。殊にその中でもヘーゲルは精神現象学等の著作を通じて、この世の中の一切を精神の現象として理解することに努力した。したがつてわれわれは観念論哲学が、如何に大きな影響を人類の歴史に与えたかを考え、それを大きく評価しなければならない。

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