2010年7月6日火曜日

第二十六章 十二種類の原因結果に関する検証(12頌)

第一頌

新しい誕生と身心を整える訓練、

そして無意識では有るけれども、周囲から何等の制約を受けない状態、其れ等の三種類の方法に依つて、

様々のものが手段として形作られて行く。

事態の前進が、行いに依存する事に依つて、具体化して行く。


第二頌

目立たせる為の行為が、全てのものを安定させて行く。

様々のものを綜合的に一箇所に置く事が、正しい在り方であり、行うべき真実である。

現在居る地点に於いて一緒に落ち着かせる事が、正しい措置であり、

眼の前の個々のものは、降り注ぐ水に依つて潤わされる。


第三頌

充分に水分を供給された上で名称と実体とが一つに重なつた、名称でもあり、実体でも有るものが、眼の前に有る。

眼、耳、鼻、舌、身、意と云う六種類の感覚器官が,綜合的な存在である。

六種類の感覚器官が与えられたもので有り、

其れ等の相互関係が、開始される。


第四頌

眼は明らかに実体で有る。そして更に、

其れ等に伴う構成も、正に実体で有る。

名称と実体とが一つに重なつた一体の事物で有る事は、明々白々とした眼の前の事実で有り、

眼の前に見える事実が、綜合的に進行しつつ有る。


第五頌

作る人と、作られるものと、作る作業との三つのものが、一つに結合する事が正に仕事で有る。
 
物質と心の働きと物事を見る能力とで有る。

従つて現実に直接触れると云う事は、寧ろ現実に対する接触から一歩後退する事で有り、

その場合、寧ろ知覚そのものが、実際に行われると云う事で有る。


第六頌

知覚が一種の渇望で有るかどうかは、どうもはつきりとして居ない。

何故かと云うと、知覚の目標は、どうも非常に強く欲求されるものの様で有るから。

強い欲求は、自分自身に対して許容する事が出来る。

四種類の方法として、許容する事が可能である。


第七頌

自分自身の為に何かを取る行為の中にも、現実に存在は有り得る。

自分自身の為に何かを取る事は、兎に角に何かを動かして、仕事を前に進める事で有る。

其の場合、其の外枠は恐らく自分自身の為に行う行為で有ろうから、

何かを緩めると云う事態が、無かつた可能性が有る。


第八頌

五種類の集合体が、現実に存在して居る場合には、

誕生が存在を離れて、前進して行く可能性が有り得る。

老化や死亡や激しい苦しみその他が、非常に激しい状態で有り、

結合して分離する事の出来ない嘆きが、周囲に満ち溢れる。


第九頌

意気消沈した状態の中で、耐え忍ぶ状態が続き、

仮令誕生の場合でも、前進だけの状態が続く。

孤独の状態が此の地点に於いても続き、

苦しみの集合体の中に、全てが綜合的に存在する。


第十頌

生々流転が基礎を成して居り、綜合的な結合を作り上げて居る。

知識の欠除が形成されて居り、その時点からは潤色が行われて居る。

従つて知識の欠除した状態が作られて居り、

知識の形成が、現実を実際に見た実情から、作り上げられて居ない。


第十一頌

自分自身が気付か無い処から、或は自己規制が厳し過ぎる処から、

綜合的に形成された様々の世界が、綜合的な存在で無い場合が有る。

自己規制に関連して実際に無知な場合には、

知識を持つて居る場合も、知識を持つて居ない場合でも同じ様に、存在から遊離して居る。


第十二頌

具体的なものに帰属し、具体的なものに帰属しながら、自己規制に頼る。

具体的なものと具体的なものとは、一定の処迄しか進歩し無い。

激しい苦しみと云う集合体は、専ら自分自身だけに帰属して居る是で有り、

其れと同じ様に拘束された状態で、一緒に行く。