ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

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2009年2月24日火曜日

接心について

仏道には、接心という行事がある。接心とは仏教寺院その他の施設を使つて、一定期間、集中的に坐禅をする期間である。したがつて、仏道の世界に於いては、大切な行事であるから、各地域、各寺院等に於いて極めて真剣に行われる行事である。
しかしこの接心という行事と毎日の坐禅とどちらが大切かという問題は、本質的に検討して置く必要がある。そしてその問題に関連しては、接心の期間が終わつた翌日以降も、当然毎日の坐禅を継続して行くべきであつて、接心の期間中,長時間の坐禅をしたから、その後何日かは坐禅を休んでも良いという原則は有り得ない。何故ならば、毎日の坐禅は仏教徒にとつては、毎日頂く朝、昼、晩と重ねる食事と同じ性質の日常行事であるから、接心の期間中比較的長い時間に亘つて坐禅をしたからと云つて、一日といえども坐禅をしないで良いと云う日は、考える事が出来ない。
それと同時に、接心は我慢比べではない。したがつて非常に厳しい日程を組んで、我慢比べをしてはならない。例えば坐禅の長さも三十分とか四十五分とかを単位とし、それ以上長く坐る場合は、間に経行(きんひん)を行う。経行とは両手で叉手をし、静かに歩く事である。一息半歩と呼ばれ、一呼吸毎に足の拇指と踵との間の半分の長さを進める歩き方で、足の痛いのを和らげたり、眠気を醒ましたりするのに役立てる。
坐禅の間には、講義の時間を挟んだり、休憩の時間や作務の時間を挟む。
食事を始める前には五観の偈を唱える。

2009年2月23日月曜日

坐禅は毎日やらないと意味がない。

坐禅は人間の自律神経を絶えずバランスさせて置く為の修行であるから、坐禅をする日があつたりなかつたりすると、自律神経のバランスして居る日とバランスしていない日とが、交互に訪れるようになるから、身心の不安定を余計に感ずる場合が有る。
したがつて、坐禅をする場合には、毎日続けてやる必要がある。坐禅を続けて三ヶ月位経つと、いつの間にか身心共に安定している自分を発見する。そこで毎日の坐禅を続けて行くならば、絶えず自律神経のバランスして居る見違える様な人生が開け来るから、人間は日常生活に於ける判断が常に正しく成り、各人にとつての最高の人生を経過する事が、出来るように成る。

2009年2月11日水曜日

二十世紀に仏道は宗教から哲学に進化した。

紀元前四、五世紀の時代に釈尊が実在論としての仏道を始めて人類に与えてから、既に二千数百年の歳月が流れたけれども、その間われわれは仏道を宗教と考えざるを得なかつた。何故かというとその間、われわれ人類は、坐禅の修行が何故われわれに「さとり」を与えて呉れるのかが、科学的に解らなかつたからである。

しかし二十世紀になつて以来、われわれ人類は、科学、特に生理学と心理学との発達により、坐禅の修行が何故人類に「さとり」を与えて呉れるのかを、科学的にはつきりと解るようになつた。したがつて人類は二十世紀以降、われわれが坐禅をする事によつて何故真実を掴む事が出来るのかがはつきり解るようになつたから、それ以来、仏道は修行と学習とに依つて真実を追求し、信仰を不可欠と考える宗教の段階から、哲学の段階に進んだ。

二十世紀以前に於いては、われわれが坐禅をすると何故「さとり」を開く事が出来るのかが解からなかつた為に、人々は古来からの言い伝えを信じて坐禅を実行するしか方法が無かつた。
しかし二十世紀に入つて生理学と心理学とが急速に発達した事に依り、人間は何故「さとり」を開く事ができるのかをはつきり理解出来るようになつた。したがつて、二十一世紀以降、坐禅をする人々は、坐禅をすると人間は何故「さとり」を開くことが出来るのかを、正確に勉強して置く必要がある。

坐禅をすると人間は何故「さとり」を開くことが出来るのかを考えて見た場合、最も大切な事実は、二十世紀に人類がその体内に自律神経と呼ばれる、普通の脳脊髄神経と呼ばれる神経とは別の神経系統を発見した以降の問題である。そして従来の脳脊髄神経と自律神経とが、何処が違うかと云うと、脳脊髄神経はわれわれ人間の意思で動かす事が出来るけれども、新しく発見された自律神経の方は、人間の意思で動かす事が出来ず、自律神経が独自の力で独り歩きする性質のものである事が、はつきりと理解されて居る。

自律神経(The Autonomic Nervous System (ANS))は, 交感神経(The Sympathetic Nervous System(SNS))と副交感神経(The Parasympathetic Nervous System(PNS))との二つに分かれ、通常反対方向の働きをする。

SNSが強い時には、人類は神々に近い傾向を示す。PNSが強い時には、人類は動物に近い傾向を示す。しかしSNSとPNSとが同じ強さの中に収まると、人類は人間の状態に収まる。そして人類は本来人間である筈の義務を背負つて居るのであるから、人類は絶えずANSをバランスさせて置く事が、人間としての義務である。

人間が毎日坐禅をする義務を背負つて居る事情は、このような事情から生まれて居る。人間が神々と同じに成る事は許されない。人間が動物と同じに成ることも許されない。人間は絶えず人間として日常生活を継続して行く義務がある。したがつて人間は毎日の日常生活の中で、坐禅をする必要があるのである。

このような理論を取り入れる事に依り、仏道は、二十世紀に、その教えの背後にある理論を、信仰としてではなく、哲学として完全に理解する事に成功した。したがつて仏道は、二十世紀以降、単に宗教である事を止め、人類最終の哲学と成る事に成功した。

2009年2月2日月曜日

身心脱落について

道元禅師が説いた教えとして、身心脱落という言葉がある。
しかし身体も脱け落ちる性質のものではないし、心も脱け落ちる性質のものではない。
したがつて身心脱落という言葉も,何を意味するのかはつきりしなかつた。
しかし20世紀頃から欧米社会の中で、長足の進歩を遂げ始めた生理学、心理学の発達に伴い、
身心脱落という言葉の意味がはつきりとし始めたので、その事をはつきりと説明して置きたい。

身心脱落という言葉も、二十世紀以降、自律神経の存在が確認され、交感神経と副交感神経との共存が確認され、またその交感神経と副交感神経との均衡が確認されるようになつてから、科学的にはつきり解明されるようになつた事実である。

人間の身体が人間から脱け落ちると云う様な馬鹿げた事実が、起こり得るという理解が許された事態は、二十世紀以前の出来事であり、二十世紀以降では許す事の出来ない理解である。
また人間の心が人間から脱け落ちるという事態も、二十世紀以降は認める事の出来ない出来事である。

人間は交感神経が強い時には、心の存在を意識する事が出来る。人間は副交感神経が強い時には、身体の存在を意識する事が出来る。しかし交感神経の強さと副交感神経の強さとがバランスした時には、身体を意識する事も出来ないし、心を意識する事も出来ない。唯、坐禅の姿勢を正しく取り、じつと坐つて居る時には、身体を意識する事も無く、心を意識する事も無く、唯、姿勢を正しく取る事に専心して、正しく坐ると云う行為が実行されているだけである。

したがつて、二十世紀以前に行われていた、坐禅をして居るとある日突然様子が変わり、それまでとは違つた境地が現れて来るという様な理解の仕方は、坐禅に対する誤解である。そのような形で、身心脱落という言葉も、科学的な立場から,笑われる様な理解をしてはならない。

二十世紀以降、われわれの体内には、脳脊椎神経と呼ばれる脳細胞の働きによつて動かすことの出来る神経が有る他に、自律神経と呼ばれる、われわれの脳細胞の働きでは動かす事の出来ない神経の存在する事が発見された。しかも自律神経は思考の働きと関係している交感神経と感受作用の働きと関係している副交感神経とに分かれて居る。

そして交感神経と副交感神経とは、相互に反対の働きをする性質があるところから、われわれの交感神経が強過ぎる時には、緊張した傾向が強く、良心的であり、他人に対する批判が厳しく、外に対して戦闘的である。

これに対して副交感神経が強過ぎる時には、たるんだ傾向が強く、緊張が欠け、怠惰で、他人に対しては常に協調的ではあるけれども、厳密さに欠ける面がある。

此のような人間の在り方に関する二つの偏つた傾向は、共に正しい傾向ではなく、釈尊はこの人間の正しくない状態から離れる事を、われわれの正しい在り方としてわれわれに勧められた。そしてその為にわれわれに頻繁な坐禅の修行を勧められ、絶えず自律神経のバランスを確保して、人間としての状態を維持する事を教えられた。したがつて坐禅というものは、我慢をして長時間実行するよりも、短時間でもよいから頻繁に実行するべきものである。

したがつて身心脱落とは、身体が脱け落ちると云う意味でもなければ、心が脱け落ちるという意味でもなく、坐禅を頻繁に実行して、交感神経の強さと副交感神経の強さとが同じ強さとなり、人間が行いの世界に入る事を意味している。