第一頌
見ること、聞くこと、嗅ぐこと、
味わうこと、触れること、感覚中枢の働き、
これら六種類の感覚作用が身近にあり、
見られたものその他が、その対象となつて居る。
第二頌
自分自身を自分自身の心が眺めると云う事態であるから、
具体的な主体が、具体的な客体を実際に眺める状態と同じでは無い。
何かが自分自身の心を眺めると云う事態とも同じでは無いのであるから、
具体的なものが、何か遠くに有るものを眺めるような状況であると云う事が、どうして有り得よう。
第三頌
豊富な内容は、単に火が見えて居る様な単純なものでは無い。
現実に見えて居るものは、通常、充分に飾り立てられたものであり、
現に眼の前に提示されて居るものが現実であり、言葉ではつきりと説明する事が出来る。
それは行きつつ有るものであるか、既に行つたものであるか、まだ行つて居ないものかである。
第四頌
何かを観察するのでもなく、何かを考えるのでもないと云う状態は、存在しない。
その様な場合には、何かを観察すると云う事では、決して有り得ない。
その様に何かを観察すると云う事は、何かを見ると云う事と同じである。
この場所に於けるこれが、今や拘束されて居ると云うことが、どうして有り得よう。
第五頌
視力の有ると云うことが、何時も何かを見ると云う事には成らない。
視力の無い事が、何時も何も見ないと云う事にも成らない。
詳細な説明は、実際に物事を眼で見た場合と同じ様な働きがあるし、
良く物事を見る人は、実際に物事を手に持つた場合と、同じ様な効果が有る。
第六頌
物事をよく見る人は、何時も否定的な見方をしないと云う事が無い。
物事を批判する事が出来ると云うことは、正に物事をよく見る力を、持つて居るという事を意味して居る。
批判をする能力と、物事をよく見る能力とは、正に同じものであり、
物事の価値を判定する事の出来る人が居なければ、具体的に価値のあるものが、一体,何処に有り得るであろう。
第七頌
検査をする力量の有る人と、視力が有ると云う事とが、欠けて居ないならば、
認識その他の働きが、四種類の働きとして活躍する。
若しも感受作用その他の働きが実在し無いとするならば、
やはり将来、どの様なものの存在を認める事が出来るであろう。
第八頌
此処で説明した問題や、聞くこと、嗅ぐこと、
味わうこと、触れること、及び感覚中枢の働きも、
物事を見る場合を母型として、
聞く人、聞かれた内容等に付いて、同じ様に説明する事が出来る。
0 件のコメント:
コメントを投稿