ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

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2010年6月23日水曜日

第二十五章 自律神経のバランスに関する検証(24頌)

第一頌

若しも自律神経のバランスした状態が、この世の中の全てで有る場合には、

此の世の中の出現も有り得無いし、この世の中の消滅も有り得無い。

放棄する事からも離れ、亦無視する事からも離れた場合、

一体何処に、自律神経のバランスを解放する事が、出来るで有ろう。


第二頌

若しも自律神経のバランスして居ない状態が、この世の中の全てで有る場合には、

此の世の中の出現も有り得無いし、この世の中の消滅も有り得無い。

放棄する事からも離れ、亦無視する事からも離れた場合、

一体何処に、自律神経のバランスを解放する事が、出来るで有ろう。


第三頌

孤立した状態でもないし、何かを達成した状態でも無い。

切断された状態でも無ければ、永遠のものでも無い。

制御不可能では無いけれども、無効果では無い。

現に今此処に有る事が、自律神経のバランスで有ると云われて居る。


第四頌

非常に偉大な存在が、自律神経のバランスでは無い。

老齢化や死去や暗示で有る。

適用可能な状態の実在して居る事が,存在して居ると云う言葉の意味で有るから、

誕生や死去が存在して居ないと云う意味では無い。


第五頌

存在が正に自律神経のバランスで有る場合には、

自律神経のバランスとは、綜合的に形作られた此の世の中全体の可能性が有る。

綜合的に作られた世界以外のもので無ければ、存在するものとして認められるので有るから、

恐らく何処かに在るもので有り、何かで有るもので有ろう。


第六頌

若しも存在そのものが、自律神経のバランスで有るとするならば、

実際に受け取つた事実は、一体どう云う事に成るので有ろう。

自律神経のバランスした状態は、受け取つた事の無い経験では無いので有るから、

何等かの存在を認識出来る筈で有る。


第七頌

存在が自律神経のバランスした状態で無い場合には、

存在し無いと云う事実が、将来と云えどもどうして有り得よう。

其処に於いては、自律神経のバランスした状態が、存在して居ないので有るから、

其の場所に於いては、存在し無い事も無いと云う事実が,認識される。


第八頌

存在し無い事が、正に自律神経のバランスで有る様な場合には、

何も受け取つて居ないと云う事実は、一体何を意味するので有ろう。

自律神経のバランスは、不存在が実在すると云う様な意味では無いから、

正に受け取つて居ないと云う状況が、認識される。


第九頌

其れ等はそう早く無いか早いか、夫々の受け取り方次第で有り、

受け取り方にも依るし、明白でも有る。

実情としては、受け取り方次第で有り、

自律神経のバランスとしては,将来の指摘に掛かつて居る。


第十頌

何かを断念すると云うことは、例えば何も喋らない事を希望して、喋ることを放棄する様なもので有る。

確かに存在する事には含まれて居るのでは有るけれども、何処にでも存在するものでも有る。

従つて存在すると云う事では無いけれども、存在しないと云う事でも無い。

自律神経のバランスと呼ばれるものが、密着して居る。


第十一頌

存在して居ないと云う事実が有るかも知れないと云う事も、矢張り事実で有る。

その場合、自律神経のバランスに関しても、二つの要素が含まれて居る。

存在して居ないと云う事実が有るかも知れないと云う事も、矢張り事実で有る。

解放と呼ばれる具体的な事実は、決して拘束されて居る訳では、決して無い。


第十二頌

存在して居ないと云う事実が有るかも知れないと云う事も、矢張り事実で有る。

その場合、自律神経のバランスに関しても、二種類の要素が含まれて居る。

我々が獲得し無なかつた訳では無さそうなものが、自律神経のバランスで有る。

何故ならば、我々が手に入れたもので、然も二種類の要素を含んで居るものが、具体的な其れで有るらしいから。


第十三頌

存在し無いと云う可能性と、存在すると云う可能性とが、共に存在する可能性がある場合でも、

自律神経のバランスした状態が、二種類存在すると云う事が、どうして有り得よう。

綜合的に作り上げられて居ない自律神経のバランスは、実在し得無いので有るから、

存在すると云う事態と、存在しないと云う事態とが、共に一つに重なつた事態が、綜合的に形作られた事態で有る。


第十四頌

存在し無いと云う事態と存在すると云う事態とが、両方とも存在すると云う事態は,有り得るけれども、

自律神経のバランスした状態が、二種類存在すると云う事態は、決して有り得ない。

二つのものが共存する中で、其の中に何一つとして存在して居ないと云う事態で有るから、

其れは正に眼に見えるものが両方共消えて、暗闇の中に眼に見えない何かが残つたと云う事で有ろう。


第十五頌

絶対に存在して居無いものではないし、絶対に存在して居るものでも無い。

自律神経のバランスと呼ばれるものは、アンジャナーと呼ばれる化粧品に似て居る。

其れは存在して居ない場合で有ろうと、存在して居る場合で有ろうと、全く同じ様に、

完成されたものとして、その結果を実際に現わす。


第十六頌

存在して居無いものでは決して無いし、存在して居るものでも決して無い。

その様な状況の中で、自律神経のバランスは認識の対象と成る。

存在して居無いものでは決して無いし、存在して居るものでも決して無い。

正に言葉では表現出来ない何かに依つて、具体的なものが推進される。


第十七頌

亦別の見方として、自律神経のバランスした状態を超越した状態が尊敬される。

存在して居ると云う事は、決して生まれたと云う事と同じでは無い。

二つ一組のものが、存在して居る訳では無い。そして、

二つ一組のものが、生まれたと云う訳でも無い。


第十八頌

しつかりとした地歩を占めて居ると云う事は、正に尊敬の対象である。

単に存在して居ると云う事は、生まれたと云う事と、決して同じでは無い。

二つ一組のものが、存在して居る訳では無い。そして、

二つ一組のものが、生まれた訳でも無い。


第十九頌

生々流転の中では、自律神経のバランスと縁が切れて居る訳では無い。

多少様子の違つた面が実在し、様子の違つた面を見せて居る。

自律神経のバランスした状態の中に於いては、生々流転とは切り離されて居る訳では無い。

多少様子の違つた面が実在し、様子の違つた面を見せて居る。


第二十頌

自律神経のバランスした状態の中に有るものは、途轍も無く優れた状態で有る。

そしてその途轍も無く優れたものは、生々流転の中にも含まれて居る。

その二つのものが、過去に属するもので有ると云う事は、絶対に無い。

極めて小さいものでは有るけれども、極めて鋭いものを正に観得する事が出来る。


第二十一頌

別の見方をすれば、自律神経のバランスを離れた場合、終末の問題その他が残る。

永遠その他で有り、亦見る事等の現実で有る。

自律神経のバランスで有り、亦死の問題で有る。

死の問題で有り、再集結の問題で有る。


第二十二頌

様々の均衡した状況な中で、そして宇宙に於ける全ての均衡した状況の中で、

何が永遠のもので有り、何が有限なもので有ろう。

何が永遠のもので有り、同時に有限なもので有り、

亦何が永遠のもので無く、同時に有限なもので無いで有ろう。


第二十三頌

何が具体的に同じもので有り、何が具体的に違つたもので有ろう。

何が永遠のもので有り、何が有限なもので有ろう。

有限なものが何で有り、無限なものが何で有ろう。

何が一体どちらでもないもので有り、然も此処に有るもので有ろう。


第二十四頌

全ての感受作用は,平穏なもので有り、

その拡大は多様なもので有り、拡大するもので有り、幸先の良いもので有る。

特定の場所に存在せず、特定のものに帰属せず、特定のものでも無い。

宇宙の秩序で有り、釈尊に依つて説かれた教育内容で有る。

2010年6月11日金曜日

第二十四章 崇高な真実に関する検証(40頌)

第一頌

バランスした自律神経が、此の世の中の全てに満ち溢れて居る場合には、

この世の中に於ける新たな実在の出現も有り得無いし、其の死滅も有り得無い。

四種類の崇高な真実に関しても、

其れ等の不存在は、議論の対象と成らない。


第二頌

知識と断念と、

其れ等の原因を直接実際に自分の眼で見る事と、

四種類の崇高な真実、

此れ等のものが存在して居ないと主張する事は、自分自身の考え方に固執し過ぎて居る。


第三頌

其の様な事実が存在して居ないと云う事態は、認識する事が出来ない。

そして此の様な事実は、四種類の崇高な結果に関しても同様で有る。

結果と呼ばれるものの存続が無ければ、結果と呼ばれるものの確立は有り得無い。

そして結果に関する四種類の段階が実在して居無ければ、四種類の段階に於ける結果も実在する事が有り得無い。


第四頌

仏教教団が実在して居なければ、其れに伴う事実も実在して居る筈が無い。

其れ等の事実とは、八種類の人々、即ち教団の人々,役職者、事務職員、召使い、従者等々で有り、

四種類の真実が存在して居ないと云う考え方を離れた場合、

現実の宇宙は絶対に、単なる認識の対象では無く成る。


第五頌

釈尊は宇宙の中にも実在して居られ無いし、仏教教団の中にも実在して居られ無い。

釈尊は将来一体何処に居られるので有ろう。

佛法僧の三宝と同じ様に、釈尊は正に宝玉としての贈り物で有る。

釈尊の説法は、聴衆を批判して聴衆を反省させる。


第六頌

様々の自律神経のバランスは、結果であり、真の実在で有る。

宇宙の秩序に背いて居ようと宇宙の秩序に従つて居ようと実体には変わりが無い。

全ての事に関連して、仕事が正に巧く進んで行く。

日常生活の中で起きる談話に対しても、やはり遠慮なく攻撃して反省させる。


第七頌

其処では談話も自律神経のバランスした状態の中で行われるが、

貴方も其の原因に気付く機会が無い。

自律神経をバランスさせた状態は、自律神経をバランスさせる事そのものが目的で有り、

拡大は正に目的物を叩いて、分散させる事が目標と成る。


第八頌

二つの真実、即ち真実と現実との中で、走る状態を充分に楽しむ事は、

真実を得られた多くの方々の、宇宙の中に於ける教えで有る。

世界の中に於ける正しい案内は、正に真実そのもので有り、

其れが真実で有り、同時に最高の真実で有る。


第九頌

其れ等の呼吸作用に依存して、子供の誕生が有る訳では無い。

誕生の構成要素は、真実と現実とに従い、この二つのものに従つて居る。

其れ等のものは現実の状態で有り,生まれるものでは無い。

臍、声、及び性格の深さが尊敬されて居るけれども、其れ等に付いて釈尊は寧ろ否定的であつた。


第十頌

何か仕事をする事に関して希望が持て無い場合には、

より高い真実の追求を、割り与えられる事が無い。

より高い真実に対しては接近する事が、不可能で有り、

自律神経のバランスに到達する事が、困難である。


第十一頌

実体は間違つたものの見方の完全に壊滅させられた状態であり、

自律神経のバランスした状態は、単純素朴なものの考えをする人々の状態を意味する。

其れは地面を這う蛇の様な気味の悪い捕獲物を意味する事でも有り、

学問的な知識を意味すると同時に、難解な完成でも有る。


第十二頌

是から以後は、唯保持する事だけが専ら目標と成り、

目標とされて居るものが、熱心に展示させられる。

宇宙自身が着物を着せられた様な状態で宇宙に帰属し、

気乗り薄な様々の人々に依つては、想像されたり発見されたりする事が難しい。


第十三頌

自律神経のバランスした状態に依存して、

其れを再度様々の存在に作り変える。

有罪判決に非常に拘わる態度は、我々の態度では無いけれども、

自律神経のバランスした状態の中に於ける現実は、現れて来ない。


第十四頌

全てのものは、正に具体的な事物の中に含まれて居る。

自律神経のバランスした状態は、その様な事物に依つて縛られて居る。

一切の事物がその様な具体的な事物の中に縛られて居る訳では無い。

自律神経のバランスした状態が、その様な状況の中に縛り付けられて居る訳では無い。


第十五頌

現実の君が様々の悪徳を作り、主体,客体の君自身を作つて居る。

様々の事物に依存して,全ての側面に於いて防御されて居る。

馬の上に正に乗つて居りながら、地上等の上に坐つて、

犬と同じ様に忘れつぽい状態で、坐つて居る事で有る。


第十六頌

主観的な存在から離れた時に、様々の存在が眼の前に有る。

貴方は現実の存在を見る事が出来る。

原因又は理由の欠けて居る状態から、はつきりと離れた状態が、様々の存在で有るから、

貴方自身は、実際に実在して居るものを手掛かりとして、実在を見て居る。


第十七頌

実行されたものも、その原因も、全く同じもので有る。

実際に行為をする人であり、実行する事で有り、其の手段で有り、行為そのもので有る。

出現で有ると同時に停止であり、

結果で有ると同時に。その結果を追い返す事で有る。


第十八頌

行動的な人々が、明々白々とした状態で綜合的に現れた結果で有り、

様々の自律神経のバランスした状態が、様々の具体的な事物を現に表明しつつ有る。

其の様な情報が受け取られ、

流れに逆らつて受領され、中道的な立場と全く一体の状態を作り上げて居る。


第十九頌

偶然な出来事の意味が、全く理解されて居ない場合には、

宇宙秩序の認識されると云う事が、全く有り得無い。

従つて其の様な事情から、自律神経がバランスして居ない状態で有る為に、

宇宙の認識されると云う事も、全く有り得無い。


第二十頌

其の様な場合、自律神経のバランスして居ない状態が、この世の中の全てで有るから、

此の世の中の出現も実在し得無いし、此の世の中の死滅も有り得無い。

四種類のものに帰属して居る対象が、崇高な真実で有り、

其れ等のものが存在して居ないと云う判断は、自分自身の考え方に拘わり過ぎて居る。


第二十一頌

偶然の出来事が全く信頼されて居ない場合には、

将来と云えども、何処に激しい苦しみが有り得よう。

起こり勝ちな事であり、良く話題に成る事で有り、激しい苦しみでも有る処から、

其の様な主観的な存在に属する事実は、認識の対象と成らない。


第二十二頌

主観的な存在とは、頭の中で考えられた様々の認識作用の綜合である。

其れが再度集結されると云う事が、どうして 有り得よう。

従つて再度集結されると云う事実が、実在すると云う事は有り得無い。

自律神経のバランスした状態が、追い払われるので有る。


第二十三頌

自己管理の能力は、主観的な能力に依存して居る訳では無い。

其れが現に実在して居る状況は、激しい苦しみに含まれて居る処から、認識する事が出来るからで有る。

主観的な存在が、様々の矛盾を作り出す。

そして自己管理された状態が、様々の矛盾を撃退する。


第二十四頌

自分自身の自由な意思に依る存在の中に、釈尊の正しい教えに包まれて存在が有る。

存在の原因と呼ばれるものは、眼に見えて現れて来るものでは無い。

幸いな事には、釈尊に依つて示された正しい教えが、存在して居る処から、

主観的なものでは無いものが、事実に即して認識出来る。


第二十五頌

其の場合、激しい苦しみは集合したもので有つて、

自律神経のバランスした状態は、認識の対象には全く成らない。

釈尊の説かれた真実の探究は、激しい苦しみを抹殺する事に依つて、離れる事で有つた。

どの様にしてそれを達成する事が、出来た事で有ろう。


第二十六頌
 
主観的な存在に依存して、不完全な知識に頼る場合、

その際、再度どの様な事態の中に包まれる事で有ろう。

完全な知識は全く期待する事が出来ず、

主観的な存在が固定された状態で、居座つて居る。


第二十七頌

直観的な行為感覚に対して、放棄的な態度を取つて居る場合には、

存在の根拠は、正に具体的な事物そのもので有る。

知識に類するものに関しては、馬に首木を付けるのと同じ様な真似はしない。

四種類の基準に関しては、正に結果に関しても、同様に適用される。


第二十八頌

主観的な存在に依存した場合、確保されて居ないものが有る。

其れは結果と呼ばれるもので有る。其の結果と呼ばれるものは、一体どう云うもので有ろうか。

具体的に学習が可能なものとしては、恐らく、

主観的な存在を自分らしいやり方で、押さえ付けて置く事で有ろう。


第二十九頌

結果が存在し無い場合には、結果の安定も有り得無い。

預流果、一来果、不還果、阿羅漢果と呼ばれる四段階の過程に於ける名称も有り得無いし、

仏教教団も実在せず、其れに伴う実体も実在せず、

八種類の男性に於ける人格も、人格的な実体も実在しない。


第三十頌

様々の真実に対して探究の旅を続ける事により、真実が存在し無いと云う考え方を離れるので無ければ、

現実の宇宙を認識する事は、絶対に有り得無い。

宇宙の中に実在せず、仏教教団の中にも実在しないとするならば、

釈尊が、将来と云えども存在すると云う事が、どうして有り得よう。


第三十一頌

真実を確認する事が、極めて難しい場合には、

釈尊は君に帰属して居る。

釈尊を確認する事が、極めて難しい場合には、

真実は君に帰属して居る。


第三十二頌

其の様な人格は、釈尊とは異なつた人格で有り、主観的な存在に依存して居り、

現実の会得は、正に意図的に占領されて居る事で有る。

真実を得たと云う事は、単に訓練を受けたと云うだけの意味では無い。

其れ等の人々は、既に真実に接近して居ると云う意味で有る。


第三十三頌

其れは宇宙の秩序で有るとか、宇宙の秩序では無いとかと云う問題とは、全く関係が無い。

其れと同時に、其れは将来作られると云うものでも、決して無い。

何か自律神経のバランスとは無関係なものが、作られたもので有る。

何故ならば、主観的な存在が作られたと云う事でも無いので有るから。


第三十四頌

宇宙の秩序で有るとか、宇宙の秩序では無いとかと云う問題と関係して居る訳では無い。

何故ならば、結果は君自身だけに依つて気付かれたものでは無いから。

宇宙の秩序で有るか、宇宙の秩序では無いかの問題は、単なる目印だけの問題でしか無い。

結果は単に君だけが認識出来ないと云う問題では無い。


第三十五頌

宇宙の秩序で有るか、宇宙の秩序では無いかの問題は、単なる目印だけの問題でしか無い。

其の場合人々は屡、結果と云うものに気が付く。

宇宙の秩序で有るか、宇宙の秩序では無いかの問題は、一種の外装の問題で有る。

自律神経のバランスして居ない状態に於ける様々のものが、どうして結果と呼べるで有ろう。


第三十六頌

全ての事に関連して、仕事を協力して実行する事は,

日常生活に関連した問題を防護する事である。

進行しつつ有る実体は、明々白々とした真実で有り、眼の前に現れた現象で有る。

自律神経のバランスした状態として、防護されて居る。


第三十七頌

実行された状態が、ほんの僅かと云えども存在し無い場合には、

全く何も着手されて居ない状態が、何かを実行した実績として有り得る。

何かを作ると云う事は、恐らく下僕として行動する事で有り、

自律神経がバランスした状態に有ると云う事は、自分自身を防護すると云う事で有ろう。


第三十八頌

まだ生まれて居ない状態は、誰からもまだ支配されて居ない状態で有る。

正に最高の地位を保つ可能性を含んで居る。

様々の色彩を保持する可能性を正に持つて居り、

主観的な存在の中に解放された状態で有り、自由に動く可能性を確保して居る。


第三十九頌

まだ到着して居ない状態では有るけれども、到着範囲に達して居る。

正に激しい苦しみの境界線内に於ける行いで有り、

全てが宇宙の秩序の中に於ける激しい苦しみで有る。

其処に於いては、宇宙秩序のバランスして居ない情景は、見受けられ無い。


第四十頌

其処に有るものは、明々白々とした起源の現象で有り、

此の世の中を見る事で有り、現実を見る事で有る。

激しい苦しみも,正に綜合的に現れて来た集合体そのもので有り、

自己管理も探究も正に一つのもので有る。





























 

2010年6月4日金曜日

第二十三章 錯覚に関する検証(25頌)

第一頌

欲望から生まれたものが、怒りで有る。

憎悪と錯誤との両方が、語られて居る。

良い前兆と悪い前兆とが、錯覚を作り出して居る。

何故ならば、正しい真実はたつた一つの場所に集中して、存在して居る筈のもので有るから。


第二頌

良い前兆と悪い前兆とが、無数の錯覚を作り出す。

正しい真実が正しい真実そのものとして、その綜合的な姿を、我々の眼の前に現に見せて居る。

其れ等は決して単に様々の主観的な存在を見せて居る訳では無い。

従つて激しい痛みそのものが、現実の事実で有ると云う様な事態は決して無い。


第三頌

霊魂が実在して居るのか、実在して居ないのかが、問題なのでは無い。

問題は、一体霊魂がどの様な形で実体化されたかと云う点に有る。

問題が実在か否かに掛かつて居ると云う事では無い。

様々の激しい苦しみが,達成された最終の目標で有る等と云う事が、どうして有り得よう。


第四頌

何か容れ物の様な働きをするものが、其の様なものとして多数存在して居る。

多数の激しい苦しみが、現実の見本として仕立て上げられて居ると云う事は、決して無い。

ああそうか、何も無いと云う言葉の意味は、本当に何も無い事を意味して居る。

激しい苦しみを多少とも認める立場と、其れを全く認めない立場とでは、立場が違う。


第五頌

様々の激しい苦しみは、自分自身の身体を眺めて居る様な場合と似て居る。

拷問に掛けられて居る状態は、五種類の集合体の様に痛くも痒ゆくも無い状態とは違う。

拷問に掛けられる事は、自分自身の身体を眺めて居る様な状態と似て居る。

様々の激しい苦しみの中に居ると云う事は、五種類の集合体の様に、決して痛くも痒ゆくも無い状態の中に居るのとは、訳が違う。


第六頌

主観的な存在としての物語りは、碓認の対象と成らない。

良い前兆と悪い前兆とは、矛盾して居る。

二つの中の一つが、激しい苦しみで有る事は、疑問の余地が無い。

良い前兆と悪い前兆とは、矛盾して居る。


第七頌

外見、音声、味覚、感触、香り、

そして宇宙、そして其れ等に伴う六種類の方法、

現実が色彩の中に現れたり、暗闇の中に隠されたりして居る。

混乱の中に含まれ、同時に絶えず入れ替わつて居る。


第八頌

外見、音声、味覚、感触、香り、

そして宇宙、しかも其れ等は各個人の占有物で有る。

刑務所を必要としないガンダルヴァと呼ばれる都市であり、

光であり、眠りであり、空虚なものと、非常に良く似て居る。


第九頌

悪い前兆と良い前兆とが特に同じ様に、

別々の結果に依存して、現れると云う事態がどうして有り得るので有ろう。

悪巧みの上手な人間の処で実行が可能な為に、

水に映つた太陽の円形が、矢張り似通つた姿として使われたので有ろう。


第十頌

注意が向けられて居ない様な前兆は、此の世の中には有り得無い。

私は寧ろ悪い前兆を指摘したい。

明々白々として居るものは、良い前兆である。

従つて良い前兆は,決して姿を態々現わして来ない。


第十一頌

注意を向けられて居ない悪い前兆は、実際には有り得無い。

何故ならば、良い前兆は例外無しに指摘されて居るから。

其の様な事実が、明々白々とした悪い前兆に関する事実で有る。

従つて悪い前兆は決して改めて気付かれる事が無い。


第十二頌

その場に何も無かつたり、良い前兆しか無かつたりする場合には、

何処で色付けをする機会が有るので有ろう。

悪い前兆の中で有つたり、何も現存して居ない場合には、

何処に憎しみの存在する可能性が有ろう。


第十三頌

永遠のものでは無いと云う情景と生得のもので有ると云う事実とは、本来同じ内容で有る。

従つてその場合、何かを確保し続けると云う事は,絶えず方向転換を繰り返す事でも
有る。

永遠で無い事の否定は、良い前兆の中に見受けられる。

確保する事は転換する事であると云う事実が、一体何処に有り得よう。


第十四頌

永遠で無い状況の中に有る事と、生得の性質で有る事とは、同じ状況で有る。

その場合、何かを獲得すると云う事は、一種の転換である。

永遠では無いと呼ばれる事は、正に何かを確保して居る事を意味して居る。

良い前兆の中に在ると云う事が、どうして一種の転換で無いと云う事が出来よう。


第十五頌

一体誰に依つて其の確保が行われるので有ろう。

正に其の確保自身が、確保を実行するのである。

平静で有る事自身が全てで有り、

従つて確保と云う事実は,認識の対象に成らない。


第十六頌

まだ何も存在して居ないか、既に確保されて居るかのどちらかで有るから、

実体が何も無いか、しつかりと結合が行われて居るかのどちらかで有り、

何処かを自由に飛び廻つて居るか、

或は何処かで自由に飛ぶ事も出来ずに居るのかも知れない。


第十七頌

転換した状態の中に有るとは、到底考えられ無いから、

様々の自由自在に飛び回る状態が、至る所に綜合的に存在する事で有ろう。

転換し無い状態の中に有るとも、到底考えられ無いから、

様々の自由自在に飛び回る状態が、至る所に綜合的に存在する事で有ろう。


第十八頌

特別に高い数値や思想の中に、含まれて居る訳では無いけれども、

様々の高い数値が、綜合的に示されて居る。

自分自身に依る反省がどの程度のものかは、はつきりし無いけれども、

様々の高い数値が、綜合的に示されて居る。


第十九頌

未完成な様々の商品を、名前で呼ぶ事がどうして出来よう。

様々の入れ替えが、将来多数存在する事で有ろう。

様々の入れ替えが行われ、また製造が手控えられた場合、

多数の入れ替えの結果は、一体どう云う事に成るので有ろう。


第二十頌

主観的なものが、何等かの存在を生み出すと云う事は有り得無い。

客観的なものが、何かを生み出すと云う事も、決して有り得ない。

主観的なものも客観的なものも、其の様な事は無い。

多数の入れ替えの結果は、一体どう云う事に成るので有ろう。


第二十一頌

霊魂は矢張り輝きで有り、生得的なもので有る。

そして其の様な場合には、正に快適な状態が認識される。

霊魂は矢張り輝きで有り、生得的なもので有る。

その様な快適な状態は、激しく入れ替わるものでは、決して有り得ない。


第二十二頌

霊魂で無いものも、やはり不純であつたり生得のものであつたりする。

そして其の様な場合にも、快適さを味わう事は出来る。

霊魂では無い事も無い様なものの場合でも、やはり不純な場合もあれば、生得の場合も有る。

しかしその様な場合でも、激しい苦しみが認識の対象と成ることは、絶対に無い。


第二十三頌

この様にして、無知が停止される。

反対方向に転換される事が、妨害される。

無知に依存し、抑制に依存する事に依り、

完成その他が、早めに推進される。


第二十四頌

その場合、現実が主観的な存在に助けられる事に依り、

激しい苦しみが多少小さなものに変わり、その容れ物も多少小さなものに変わる。

どう云う訳か名称が刺激されて拡大し、

様々の主観的な存在が、何かに依つて力付けられる。


第二十五頌

その場合には、今まで無かつたものが主観的な存在を頼りにするように成り、

激しい苦しみが多少小さなものに変わり、その容れ物も多少小さなものに変わる。

どう云う訳か名称が刺激されて拡大し、

何かが、実際には存在して居ない様々のものを、拡大させる。

2010年6月1日火曜日

第二十二章 現実の到来に関する検証(16頌)

第一頌

存在に関する五種類の要素、即ち物質、感覚、知覚、行為の実践、思考能力は、この五種類の要素の想像させるものとは、全く別である。

そして両者が違う処から、五種類の要素は具体的な物に帰属する訳では無く、現実そのものである。

現実の到来は、五種類の要素には似て居ない。

其の様な処に、どうして現実の到来が有り得よう。


第二頌

釈尊は五種類の要素の存在を了承しつつ有る様に見える。

そして仮にそう仮定した場合、主観的な立場で考えて居る事物は、実際には存在しない。

主観的な事物と呼ばれる様なものは、現実には実在して居ない。

一体何処に現実と呼ばれるものが、付随的な意味で説かれる事が有り得よう。


第三頌

付随的な事項と呼ばれるものの存在は、明々白々として居る。

自分自身では無いものとされて居る現実と呼ばれて居るものが、現れて来る。

自分自身とは呼ばれて居ない現実とは、一体何を意味して居るのであろうか。

それこそが現実到来と呼ばれるもの自身で有る可能性が有り得る。


第四頌

主観的な存在が実際問題として実在して居ない場合には、

付随的な存在の存在して居る可能性が、どうして有り得よう。

主観的な存在と客観的な存在との両方に依存した場合、

何か現実らしいものが現実として、現実の到来として動き出す。


第五頌

五種類の集合体を受け入れる事が難しい様な場合には、

何か現実到来に似た様な状態の可能性が有りそうな気がする。

現実は正に現在の時点に限定され、現在の時点を離れる事が出来ない。

現にこの時点に於いて、拡大を実施する可能性が有る。


第六頌

五種類の集合体を、手に入れる事が非常に難しい場合には、

現実の到来を手に入れる事が、実際には全く有り得無い。

そしてその様な現実の到来が実在し無い為に、手に入れる事が不可能な場合には、

現実が将来と云えども、手に入ると云う事がどうして有り得よう。


第七頌

受領を拒む行為は、許されて居ない。

況して自分の為に何かを獲得する行為が、許されて居ないと云う事実が、どうして有り得よう。

欲望や人生に対する執着から解放されて居ると云う事例は,実際には達成されて居ない。

如何して現実の到来が不可能で有ると云えよう。


第八頌