第二十五章 自律神経のバランスに関する検証(24頌)
第一頌
若しも自律神経のバランスした状態が、この世の中の全てで有る場合には、
此の世の中の出現も有り得無いし、この世の中の消滅も有り得無い。
放棄する事からも離れ、亦無視する事からも離れた場合、
一体何処に、自律神経のバランスを解放する事が、出来るで有ろう。
第二頌
若しも自律神経のバランスして居ない状態が、この世の中の全てで有る場合には、
此の世の中の出現も有り得無いし、この世の中の消滅も有り得無い。
放棄する事からも離れ、亦無視する事からも離れた場合、
一体何処に、自律神経のバランスを解放する事が、出来るで有ろう。
第三頌
孤立した状態でもないし、何かを達成した状態でも無い。
切断された状態でも無ければ、永遠のものでも無い。
制御不可能では無いけれども、無効果では無い。
現に今此処に有る事が、自律神経のバランスで有ると云われて居る。
第四頌
非常に偉大な存在が、自律神経のバランスでは無い。
老齢化や死去や暗示で有る。
適用可能な状態の実在して居る事が,存在して居ると云う言葉の意味で有るから、
誕生や死去が存在して居ないと云う意味では無い。
第五頌
存在が正に自律神経のバランスで有る場合には、
自律神経のバランスとは、綜合的に形作られた此の世の中全体の可能性が有る。
綜合的に作られた世界以外のもので無ければ、存在するものとして認められるので有るから、
恐らく何処かに在るもので有り、何かで有るもので有ろう。
第六頌
若しも存在そのものが、自律神経のバランスで有るとするならば、
実際に受け取つた事実は、一体どう云う事に成るので有ろう。
自律神経のバランスした状態は、受け取つた事の無い経験では無いので有るから、
何等かの存在を認識出来る筈で有る。
第七頌
存在が自律神経のバランスした状態で無い場合には、
存在し無いと云う事実が、将来と云えどもどうして有り得よう。
其処に於いては、自律神経のバランスした状態が、存在して居ないので有るから、
其の場所に於いては、存在し無い事も無いと云う事実が,認識される。
第八頌
存在し無い事が、正に自律神経のバランスで有る様な場合には、
何も受け取つて居ないと云う事実は、一体何を意味するので有ろう。
自律神経のバランスは、不存在が実在すると云う様な意味では無いから、
正に受け取つて居ないと云う状況が、認識される。
第九頌
其れ等はそう早く無いか早いか、夫々の受け取り方次第で有り、
受け取り方にも依るし、明白でも有る。
実情としては、受け取り方次第で有り、
自律神経のバランスとしては,将来の指摘に掛かつて居る。
第十頌
何かを断念すると云うことは、例えば何も喋らない事を希望して、喋ることを放棄する様なもので有る。
確かに存在する事には含まれて居るのでは有るけれども、何処にでも存在するものでも有る。
従つて存在すると云う事では無いけれども、存在しないと云う事でも無い。
自律神経のバランスと呼ばれるものが、密着して居る。
第十一頌
存在して居ないと云う事実が有るかも知れないと云う事も、矢張り事実で有る。
その場合、自律神経のバランスに関しても、二つの要素が含まれて居る。
存在して居ないと云う事実が有るかも知れないと云う事も、矢張り事実で有る。
解放と呼ばれる具体的な事実は、決して拘束されて居る訳では、決して無い。
第十二頌
存在して居ないと云う事実が有るかも知れないと云う事も、矢張り事実で有る。
その場合、自律神経のバランスに関しても、二種類の要素が含まれて居る。
我々が獲得し無なかつた訳では無さそうなものが、自律神経のバランスで有る。
何故ならば、我々が手に入れたもので、然も二種類の要素を含んで居るものが、具体的な其れで有るらしいから。
第十三頌
存在し無いと云う可能性と、存在すると云う可能性とが、共に存在する可能性がある場合でも、
自律神経のバランスした状態が、二種類存在すると云う事が、どうして有り得よう。
綜合的に作り上げられて居ない自律神経のバランスは、実在し得無いので有るから、
存在すると云う事態と、存在しないと云う事態とが、共に一つに重なつた事態が、綜合的に形作られた事態で有る。
第十四頌
存在し無いと云う事態と存在すると云う事態とが、両方とも存在すると云う事態は,有り得るけれども、
自律神経のバランスした状態が、二種類存在すると云う事態は、決して有り得ない。
二つのものが共存する中で、其の中に何一つとして存在して居ないと云う事態で有るから、
其れは正に眼に見えるものが両方共消えて、暗闇の中に眼に見えない何かが残つたと云う事で有ろう。
第十五頌
絶対に存在して居無いものではないし、絶対に存在して居るものでも無い。
自律神経のバランスと呼ばれるものは、アンジャナーと呼ばれる化粧品に似て居る。
其れは存在して居ない場合で有ろうと、存在して居る場合で有ろうと、全く同じ様に、
完成されたものとして、その結果を実際に現わす。
第十六頌
存在して居無いものでは決して無いし、存在して居るものでも決して無い。
その様な状況の中で、自律神経のバランスは認識の対象と成る。
存在して居無いものでは決して無いし、存在して居るものでも決して無い。
正に言葉では表現出来ない何かに依つて、具体的なものが推進される。
第十七頌
亦別の見方として、自律神経のバランスした状態を超越した状態が尊敬される。
存在して居ると云う事は、決して生まれたと云う事と同じでは無い。
二つ一組のものが、存在して居る訳では無い。そして、
二つ一組のものが、生まれたと云う訳でも無い。
第十八頌
しつかりとした地歩を占めて居ると云う事は、正に尊敬の対象である。
単に存在して居ると云う事は、生まれたと云う事と、決して同じでは無い。
二つ一組のものが、存在して居る訳では無い。そして、
二つ一組のものが、生まれた訳でも無い。
第十九頌
生々流転の中では、自律神経のバランスと縁が切れて居る訳では無い。
多少様子の違つた面が実在し、様子の違つた面を見せて居る。
自律神経のバランスした状態の中に於いては、生々流転とは切り離されて居る訳では無い。
多少様子の違つた面が実在し、様子の違つた面を見せて居る。
第二十頌
自律神経のバランスした状態の中に有るものは、途轍も無く優れた状態で有る。
そしてその途轍も無く優れたものは、生々流転の中にも含まれて居る。
その二つのものが、過去に属するもので有ると云う事は、絶対に無い。
極めて小さいものでは有るけれども、極めて鋭いものを正に観得する事が出来る。
第二十一頌
別の見方をすれば、自律神経のバランスを離れた場合、終末の問題その他が残る。
永遠その他で有り、亦見る事等の現実で有る。
自律神経のバランスで有り、亦死の問題で有る。
死の問題で有り、再集結の問題で有る。
第二十二頌
様々の均衡した状況な中で、そして宇宙に於ける全ての均衡した状況の中で、
何が永遠のもので有り、何が有限なもので有ろう。
何が永遠のもので有り、同時に有限なもので有り、
亦何が永遠のもので無く、同時に有限なもので無いで有ろう。
第二十三頌
何が具体的に同じもので有り、何が具体的に違つたもので有ろう。
何が永遠のもので有り、何が有限なもので有ろう。
有限なものが何で有り、無限なものが何で有ろう。
何が一体どちらでもないもので有り、然も此処に有るもので有ろう。
第二十四頌
全ての感受作用は,平穏なもので有り、
その拡大は多様なもので有り、拡大するもので有り、幸先の良いもので有る。
特定の場所に存在せず、特定のものに帰属せず、特定のものでも無い。
宇宙の秩序で有り、釈尊に依つて説かれた教育内容で有る。
若しも自律神経のバランスした状態が、この世の中の全てで有る場合には、
此の世の中の出現も有り得無いし、この世の中の消滅も有り得無い。
放棄する事からも離れ、亦無視する事からも離れた場合、
一体何処に、自律神経のバランスを解放する事が、出来るで有ろう。
第二頌
若しも自律神経のバランスして居ない状態が、この世の中の全てで有る場合には、
此の世の中の出現も有り得無いし、この世の中の消滅も有り得無い。
放棄する事からも離れ、亦無視する事からも離れた場合、
一体何処に、自律神経のバランスを解放する事が、出来るで有ろう。
第三頌
孤立した状態でもないし、何かを達成した状態でも無い。
切断された状態でも無ければ、永遠のものでも無い。
制御不可能では無いけれども、無効果では無い。
現に今此処に有る事が、自律神経のバランスで有ると云われて居る。
第四頌
非常に偉大な存在が、自律神経のバランスでは無い。
老齢化や死去や暗示で有る。
適用可能な状態の実在して居る事が,存在して居ると云う言葉の意味で有るから、
誕生や死去が存在して居ないと云う意味では無い。
第五頌
存在が正に自律神経のバランスで有る場合には、
自律神経のバランスとは、綜合的に形作られた此の世の中全体の可能性が有る。
綜合的に作られた世界以外のもので無ければ、存在するものとして認められるので有るから、
恐らく何処かに在るもので有り、何かで有るもので有ろう。
第六頌
若しも存在そのものが、自律神経のバランスで有るとするならば、
実際に受け取つた事実は、一体どう云う事に成るので有ろう。
自律神経のバランスした状態は、受け取つた事の無い経験では無いので有るから、
何等かの存在を認識出来る筈で有る。
第七頌
存在が自律神経のバランスした状態で無い場合には、
存在し無いと云う事実が、将来と云えどもどうして有り得よう。
其処に於いては、自律神経のバランスした状態が、存在して居ないので有るから、
其の場所に於いては、存在し無い事も無いと云う事実が,認識される。
第八頌
存在し無い事が、正に自律神経のバランスで有る様な場合には、
何も受け取つて居ないと云う事実は、一体何を意味するので有ろう。
自律神経のバランスは、不存在が実在すると云う様な意味では無いから、
正に受け取つて居ないと云う状況が、認識される。
第九頌
其れ等はそう早く無いか早いか、夫々の受け取り方次第で有り、
受け取り方にも依るし、明白でも有る。
実情としては、受け取り方次第で有り、
自律神経のバランスとしては,将来の指摘に掛かつて居る。
第十頌
何かを断念すると云うことは、例えば何も喋らない事を希望して、喋ることを放棄する様なもので有る。
確かに存在する事には含まれて居るのでは有るけれども、何処にでも存在するものでも有る。
従つて存在すると云う事では無いけれども、存在しないと云う事でも無い。
自律神経のバランスと呼ばれるものが、密着して居る。
第十一頌
存在して居ないと云う事実が有るかも知れないと云う事も、矢張り事実で有る。
その場合、自律神経のバランスに関しても、二つの要素が含まれて居る。
存在して居ないと云う事実が有るかも知れないと云う事も、矢張り事実で有る。
解放と呼ばれる具体的な事実は、決して拘束されて居る訳では、決して無い。
第十二頌
存在して居ないと云う事実が有るかも知れないと云う事も、矢張り事実で有る。
その場合、自律神経のバランスに関しても、二種類の要素が含まれて居る。
我々が獲得し無なかつた訳では無さそうなものが、自律神経のバランスで有る。
何故ならば、我々が手に入れたもので、然も二種類の要素を含んで居るものが、具体的な其れで有るらしいから。
第十三頌
存在し無いと云う可能性と、存在すると云う可能性とが、共に存在する可能性がある場合でも、
自律神経のバランスした状態が、二種類存在すると云う事が、どうして有り得よう。
綜合的に作り上げられて居ない自律神経のバランスは、実在し得無いので有るから、
存在すると云う事態と、存在しないと云う事態とが、共に一つに重なつた事態が、綜合的に形作られた事態で有る。
第十四頌
存在し無いと云う事態と存在すると云う事態とが、両方とも存在すると云う事態は,有り得るけれども、
自律神経のバランスした状態が、二種類存在すると云う事態は、決して有り得ない。
二つのものが共存する中で、其の中に何一つとして存在して居ないと云う事態で有るから、
其れは正に眼に見えるものが両方共消えて、暗闇の中に眼に見えない何かが残つたと云う事で有ろう。
第十五頌
絶対に存在して居無いものではないし、絶対に存在して居るものでも無い。
自律神経のバランスと呼ばれるものは、アンジャナーと呼ばれる化粧品に似て居る。
其れは存在して居ない場合で有ろうと、存在して居る場合で有ろうと、全く同じ様に、
完成されたものとして、その結果を実際に現わす。
第十六頌
存在して居無いものでは決して無いし、存在して居るものでも決して無い。
その様な状況の中で、自律神経のバランスは認識の対象と成る。
存在して居無いものでは決して無いし、存在して居るものでも決して無い。
正に言葉では表現出来ない何かに依つて、具体的なものが推進される。
第十七頌
亦別の見方として、自律神経のバランスした状態を超越した状態が尊敬される。
存在して居ると云う事は、決して生まれたと云う事と同じでは無い。
二つ一組のものが、存在して居る訳では無い。そして、
二つ一組のものが、生まれたと云う訳でも無い。
第十八頌
しつかりとした地歩を占めて居ると云う事は、正に尊敬の対象である。
単に存在して居ると云う事は、生まれたと云う事と、決して同じでは無い。
二つ一組のものが、存在して居る訳では無い。そして、
二つ一組のものが、生まれた訳でも無い。
第十九頌
生々流転の中では、自律神経のバランスと縁が切れて居る訳では無い。
多少様子の違つた面が実在し、様子の違つた面を見せて居る。
自律神経のバランスした状態の中に於いては、生々流転とは切り離されて居る訳では無い。
多少様子の違つた面が実在し、様子の違つた面を見せて居る。
第二十頌
自律神経のバランスした状態の中に有るものは、途轍も無く優れた状態で有る。
そしてその途轍も無く優れたものは、生々流転の中にも含まれて居る。
その二つのものが、過去に属するもので有ると云う事は、絶対に無い。
極めて小さいものでは有るけれども、極めて鋭いものを正に観得する事が出来る。
第二十一頌
別の見方をすれば、自律神経のバランスを離れた場合、終末の問題その他が残る。
永遠その他で有り、亦見る事等の現実で有る。
自律神経のバランスで有り、亦死の問題で有る。
死の問題で有り、再集結の問題で有る。
第二十二頌
様々の均衡した状況な中で、そして宇宙に於ける全ての均衡した状況の中で、
何が永遠のもので有り、何が有限なもので有ろう。
何が永遠のもので有り、同時に有限なもので有り、
亦何が永遠のもので無く、同時に有限なもので無いで有ろう。
第二十三頌
何が具体的に同じもので有り、何が具体的に違つたもので有ろう。
何が永遠のもので有り、何が有限なもので有ろう。
有限なものが何で有り、無限なものが何で有ろう。
何が一体どちらでもないもので有り、然も此処に有るもので有ろう。
第二十四頌
全ての感受作用は,平穏なもので有り、
その拡大は多様なもので有り、拡大するもので有り、幸先の良いもので有る。
特定の場所に存在せず、特定のものに帰属せず、特定のものでも無い。
宇宙の秩序で有り、釈尊に依つて説かれた教育内容で有る。