2006年10月12日木曜日

学道用心集(5)第四 有所得心(うしょとくのしん)を用(もつ)て仏法を修すべからざる事

(本文)

右、仏法修行は、必ず先達(せんだつ)の真訣(しんけつ)を稟(うけ)て、私の用心を用いざるか。
況や仏法は、有心(うしん)を以つて得可からず。無心を以て得べからず。
但だ操行(そうぎょう)の心と道と符合せずんば、身心未だ嘗(かつ)て安寧(あんねい)ならず。
身心未だ安寧ならずんば身心安楽ならず。
身心安楽ならずんば、道を證するに荊棘(けいきょく)生ず。
所謂(いわゆる)操行と道と合して、如何(いかん)が行履(あんり)せん。心取捨(しんしゅしゃ)せず、心名利(みょうり)無きなり。
仏法修行は是れ人の為に修せず。
今世人(こんぜにん)の如き、仏法修行の人、其の心と道と遠(とお)くして遠し。
若し人賞翫(ひとしょうがん)すれば、縦(たと)え非道と知るも、乃ち之れを修行す。
若し恭敬(くぎょう)し讃歎(さんたん)せずんば、是れ正道(しょうどう)と知ると雖も、棄てて修せず。痛(いた)ましき哉(かな)。
汝等(なんじら)試みに心を静かにして観察せよ、此の心行(しんぎょう)、仏法とせんや、仏法に非ずとせんや。
恥(は)ずべし恥ずべし。聖眼(しょうげん)の照す所なり。
夫(そ)れ仏法修行の者は、尚お自身の為にせず、況や名聞利養(みょうもんりよう)の為に之を修せんや。
但(た)だ仏法の為に之を修すべきなり。
諸佛の慈悲(じひ)、衆生(しゅじょう)を哀愍(あいみん)するは、自身の為にせず、他人の為にせず、唯だ仏法の常(つね)なり。
見ずや、小虫畜類(しょちゅうちくるい)すら、其の子を養育するに、身心艱難(かんなん)、経営苦辛(けいえいくしん)し、畢竟(ひつきょう)長養すれども、父母に於いて終に益なきをや。
然れども子を念(おも)うの慈悲あり。
小物すら尚お然り、自(おの)ずから諸佛の衆生を念うに似たり。
諸佛の妙法(みようほう)は、唯だ慈悲の一條(じょう)のみにあらず、普(あま)ねく諸門に現(げん)ず。其の本(もと)皆(みな)然り。
既に仏子(ぶつし)たり、葢(な)んぞ仏風(ぶつぷう)に慣(な)らわざらんや。
行者(ぎょうじゃ)、自身の為に仏法を修すと念(おも)う可からず、名利の為に仏法を修す可らず、
果報(かほう)を得んが為に仏法を修す可からず、霊験(れいげん)を得んが為に仏法を修す可からず、
但だ仏法の為に仏法を修す、乃(すなわ)ち是れ道(どう)なり。

(現代語訳)

学道用心集 第五 何かを得たいという気持ちで、釈尊の教えを勉強してはならない事

上に述べられている釈尊の教えに関する仏道修行は、先輩が述べられた本当の要点を素直に受け入れて、自分自身が考え出した心掛けを、使つてはならないもののようである。
況して釈尊の説かれた教えは、頭を使い過ぎても得ることが出来ないし、頭を全然使わなくても得る事ができない。
唯、行いを実行して行こうという心掛けと、釈尊のお説きになつた教えとが、ぴつたりと一致した状態でなければ、身体と心とが完全に安定した状態にはならないものである。
そして身体と心とがまだ完全に安定していない場合には、真実を体験する際に、茨のような激しい痛みが伴うものである。
それでは行いを実行して行こうという心掛けと、釈尊のお説きになつた教えとが完全に一致した場合、どのような行いが実践されるのであろうか。それは、自分自身の心が選り好みをせず、自分自身の心の中に、名誉や利得を得たいという気持ちがない状態である。
釈尊のお説きになつた教えを実行する場合には、他の人が自分の行いをどのように評価するかを気にしながら、行いを実行する訳ではない。
しかし現代人の場合には、仏道修行をしている人の心と、真実とが非常に離れてしまつている場合が多い。
現代人の場合には、もしも他の人々がそれを非常に誉める場合には、それが仮に間違つた教えと分かつていても、実際にそれを実行する。
もしも人々がそれを尊敬しなかつたり、褒めそやしたりしない場合には、それが正しい道であると分かつていても、それを捨てて実行しようとしない。非常に痛ましい話ではなかろうか。
お前方は試験的に心を静かにして、状況を観察して見ると良い。このような心や行いを、釈尊の教えと考えたらよいのか、或は釈尊の教えと考えない方がよいのか。
恥ずかしい事である。恥ずかしい事である。聖人の眼から見れば、直ぐに分かる事である。
本来、釈尊の教えを実行する者は、仏道修行を自分自身の為にさえ、実行している訳ではない。況して名誉や利得の為にこれを実行するというような事が、どうしてあり得よう。
唯、釈尊の教えを目標として、仏道修行をすべきである。
真実を得られた沢山の方々の慈悲心が、この世の中の全ての生物を哀れむ事情は、自分自身の為にするのでもなければ、他の人の為にする訳でもなく、唯、釈尊の教えの当然の帰結として実行するのである。
小さな虫や動物でさえ、その子供を養育するに当つては、身体も心も苦難に曝し、その実行に当つて非常な苦労をし、最後迄長い期間に亘つて養育するけれども、その父親、母親にとつては最後迄、自分の為になるような事は何もない。
しかしながら父親、母親には必ず子供の事を考える慈悲心が有る。
どんな小さいものに就いても、そのような慈悲心が有り、そのような事情は、丁度、真実を得た沢山の方々が、この世の中の全ての生物を思いやる事情に似ている。
真実を得られた方々の優れた教えは、唯、慈悲という限られた分野だけで働く訳ではなく、この世の中のあらゆる分野に現れて来るけれども、その根源は何れも一つのものに帰着する。
われわれは既に釈尊の弟子である。どうして釈尊が実行された態度を見習わないことがあり得よう。
仏道修行者は、自分自身の為に仏道修行をしていると考えてはならないし、名誉や利得の為に仏道修行をするべきでは無い。
直接間接の幸せを得る為に、仏道修行をするべきではないし、非常に不思議な結果を得る為に、仏道修行をするべきでもない。
唯、釈尊の教えの為に釈尊の教えを実行する事、それこそが正に真実そのものである。

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