現実(4)神と宇宙
私の仏教概論を終わるに当つて、私は神と仏教との関係を考えて見たい。何故かというと、多くの仏教学者は、仏教は無神論だと考えている。しかし私の場合、神と仏教との関係を考える事は,それほど容易なことではない。何故かと云うと、キリスト教の例を見ても,神の問題は非常に重要であり、問題を解決するため、非常に多くの理論がある。そこで私は、神の問題を考えるに当つても、非常に慎重でなければならないと思う。
それと同時にわれわれが、現に今住んでいるこの世界を考えた場合、それを理解する事も、そう易しいことではない。たとえばわれわれが、太陽系のことを考えた場合、私は太陽や地球のように大きな幾つかの天体が,現に空間に維持されている理由が、よく解らない。われわれの科学的な知識がある程度発達して来たために、われわれは,この世の中の全てのものが重力を持つているという単純な事実の存在は知つているけれども、ではどうして重力という不可思議な現象が、この世の中に存在するのかを考えて見ると、私は重力がこの世の中に何故存在するのかという根源的な理由が解らない。したがつてわれわれは現にその中に住んでいるこの世の中が、しばしば予想に反して、非常に神秘的であり、奇跡的であることを考えなければならない。
そしてそれと同時にわれわれは、この世の中がある種の秩序によつて支配されている事実を、了承する必要がある。われわれはこの世の中が正に宇宙の秩序によつて支配されている世界であり、ある種の宇宙秩序によつて支配された組織的な世界であることを、認めざるを得ない。
しかしこの世の中は、やはり盲目的なエネルギーに満たされた領域でもある。したがつてわれわれはこの世の中が、ある種の盲目的なそして神秘的な空間であつて、この世の中がやはり何らかの基準によつて、管理されなければならない世界でもある事を、疑うことが出来ない。一体誰がそのように盲目的な世界を、管理することが出来るであろうか。そして私はそのような問題を考えた場合、そのように膨大な盲目的なエネルギーを、何とか自分達の手で管理して行こうと努力しいるわれわれ人類の意図が、非常に貴重なものであると思う。しかし現にその中に住んでいるわれわれ人類は、まだ十分に盲目的なエネルギーを使いこなしているとは云えない。
そこでわれわれが現に直面している宇宙の現状を、ありの侭に眺めてみると、一方では厳然とした宇宙の秩序があり、一方ではわれわれ人間では容易に管理する事の出来ない盲目的なエネルギーの存在する世界のように、観察される。そのような状況の中で,われわれ人類は確乎不動の宇宙の原則と盲目的なエネルギーとの板挟みになりながら、可成りよく健闘しているようにも見受けられる。
しかしそのような状況の中で、世界における最も緊迫した課題は、恐らく観念論哲学と唯物論哲学との完全に対立した関係であろう。宗教的な人々は、彼等の観念論哲学に誘導されて,精神的なものに憧れている。しかし唯物論的な基礎に立つて、精神的な価値を全く認めようとしない人々は、経済的な価値を得ることに非常に熱心であり、観念論的な価値を激しく嘲笑する。そこでもしも同じ社会に属するわれわれが、完全に対立した思想を持ち、極めて対立した態度を持ち続けながら、果たしてさまざまの共通課題に付いて、同じような妥当な態度を取ることが出来るであろうか? 私は、人類は観念論戦線と唯物論戦線との対立の中で、平和な関係を維持する事は、永遠に不可能であると考えている。
したがつてそのような状況の中で、もしも人類が完全に対立している二つの哲学、すなわち観念論と唯物論とを共存させて行こうとするならば、それはこの地球上においては殆ど実現不可能な試みに対して、社会の人々が無限の努力を続けて行こうとする事であつて、決して賢明な態度とは云えない。それは今日まで人類が盲目的に続け来た努力を、さらに絶望的な態度で続けて行こうとすることであつて、そのように不合理な努力を通じて、人類が何らかの平和を見出しそれを保つて行くことは、完全に不可能であると思う。
そしてそのように人間社会が,観念論と唯物論との共存を無責任に放置するならば、人類社会に極めて緊急な課題が発生する。それは神の問題である。今日においても、神に対する宗教的な人々の愛が、如何に強いかということは、殆どの人々がよく知つている。そしてもしも神の維持ということに付いて、何の解決策もないとするならば、宗教的な人々が観念論哲学を離れるということが、どうしてあり得よう。そのような場合には、彼等が観念論哲学に関する信仰を絶対に離れない可能性さえあり得る。しかしわれわれが、仮に唯物論が持つている神に対する嫌悪を考えた場合、唯物論者における神に対する嫌悪も非常に激しいものがあるから、唯物論者が神に対する信仰を容認することも、殆ど不可能であると考えられる。そしてそのような状況の中では、もしも人類が神に関する非常に難しい問題を解決する事ができない限り、人類が現実に対する信仰を確立することも、完全に不可能であろう。
そこで神に対してわれわれは、一体どのように考えたらよいのであろうか。近代的な科学思想が教える限りでは、宇宙は常に間断なく無限に拡大していると云われている。そしてもしもわれわれがそのような事実を肯定するならば、無限に拡大しつつあるこの宇宙の外側に、この宇宙とは別の宇宙があることを、想定することは非常に困難であり、したがつて神がこの宇宙の外側における存在であると考えることも非常に困難である。そしてそのよな状況の許では、われわれは神がこの宇宙の内側にあると、考えざるを得ない。しかしその場合、神をこの宇宙の中の一部と考えることは許されない。何故かと云うと、神は全てであり,あらゆる場所に存在し、全能であり、絶対でなければならないからである。
そのように考えて来ると、私は神が従来実際の実情よりも、過小な形で想定されて来たのではないかということを恐れる。そして神の革命的な復活を、真剣に考えるべきではないかと思う。私は、人類が「神は宇宙である、宇宙は神である」という考え方を受け入れるべきであると思う。神と宇宙とは一つの崇高な実在である。神は宇宙であり,宇宙が神である。そしてその神でもあり、宇宙でもあるものが、現実と呼ばれている。
われわれは神の中に住み,宇宙の中に住んでいる。そしてその事実を具体的に実観させてくれるものが、坐禅である。われわれは坐禅をすることによつて、神の中に坐り,宇宙の中に坐り、行いの中に坐り、現実の中に坐る。
以上を通して私は、現在私が考えている仏道を、最も簡潔な最も真実な方法を使つて表現して見た。多くの人々が先ず仏教の概略を理解し、やがて坐禅を通じて、仏道の世界に入つて行くことを、強く願がつている。
(仏教概論終わり)
それと同時にわれわれが、現に今住んでいるこの世界を考えた場合、それを理解する事も、そう易しいことではない。たとえばわれわれが、太陽系のことを考えた場合、私は太陽や地球のように大きな幾つかの天体が,現に空間に維持されている理由が、よく解らない。われわれの科学的な知識がある程度発達して来たために、われわれは,この世の中の全てのものが重力を持つているという単純な事実の存在は知つているけれども、ではどうして重力という不可思議な現象が、この世の中に存在するのかを考えて見ると、私は重力がこの世の中に何故存在するのかという根源的な理由が解らない。したがつてわれわれは現にその中に住んでいるこの世の中が、しばしば予想に反して、非常に神秘的であり、奇跡的であることを考えなければならない。
そしてそれと同時にわれわれは、この世の中がある種の秩序によつて支配されている事実を、了承する必要がある。われわれはこの世の中が正に宇宙の秩序によつて支配されている世界であり、ある種の宇宙秩序によつて支配された組織的な世界であることを、認めざるを得ない。
しかしこの世の中は、やはり盲目的なエネルギーに満たされた領域でもある。したがつてわれわれはこの世の中が、ある種の盲目的なそして神秘的な空間であつて、この世の中がやはり何らかの基準によつて、管理されなければならない世界でもある事を、疑うことが出来ない。一体誰がそのように盲目的な世界を、管理することが出来るであろうか。そして私はそのような問題を考えた場合、そのように膨大な盲目的なエネルギーを、何とか自分達の手で管理して行こうと努力しいるわれわれ人類の意図が、非常に貴重なものであると思う。しかし現にその中に住んでいるわれわれ人類は、まだ十分に盲目的なエネルギーを使いこなしているとは云えない。
そこでわれわれが現に直面している宇宙の現状を、ありの侭に眺めてみると、一方では厳然とした宇宙の秩序があり、一方ではわれわれ人間では容易に管理する事の出来ない盲目的なエネルギーの存在する世界のように、観察される。そのような状況の中で,われわれ人類は確乎不動の宇宙の原則と盲目的なエネルギーとの板挟みになりながら、可成りよく健闘しているようにも見受けられる。
しかしそのような状況の中で、世界における最も緊迫した課題は、恐らく観念論哲学と唯物論哲学との完全に対立した関係であろう。宗教的な人々は、彼等の観念論哲学に誘導されて,精神的なものに憧れている。しかし唯物論的な基礎に立つて、精神的な価値を全く認めようとしない人々は、経済的な価値を得ることに非常に熱心であり、観念論的な価値を激しく嘲笑する。そこでもしも同じ社会に属するわれわれが、完全に対立した思想を持ち、極めて対立した態度を持ち続けながら、果たしてさまざまの共通課題に付いて、同じような妥当な態度を取ることが出来るであろうか? 私は、人類は観念論戦線と唯物論戦線との対立の中で、平和な関係を維持する事は、永遠に不可能であると考えている。
したがつてそのような状況の中で、もしも人類が完全に対立している二つの哲学、すなわち観念論と唯物論とを共存させて行こうとするならば、それはこの地球上においては殆ど実現不可能な試みに対して、社会の人々が無限の努力を続けて行こうとする事であつて、決して賢明な態度とは云えない。それは今日まで人類が盲目的に続け来た努力を、さらに絶望的な態度で続けて行こうとすることであつて、そのように不合理な努力を通じて、人類が何らかの平和を見出しそれを保つて行くことは、完全に不可能であると思う。
そしてそのように人間社会が,観念論と唯物論との共存を無責任に放置するならば、人類社会に極めて緊急な課題が発生する。それは神の問題である。今日においても、神に対する宗教的な人々の愛が、如何に強いかということは、殆どの人々がよく知つている。そしてもしも神の維持ということに付いて、何の解決策もないとするならば、宗教的な人々が観念論哲学を離れるということが、どうしてあり得よう。そのような場合には、彼等が観念論哲学に関する信仰を絶対に離れない可能性さえあり得る。しかしわれわれが、仮に唯物論が持つている神に対する嫌悪を考えた場合、唯物論者における神に対する嫌悪も非常に激しいものがあるから、唯物論者が神に対する信仰を容認することも、殆ど不可能であると考えられる。そしてそのような状況の中では、もしも人類が神に関する非常に難しい問題を解決する事ができない限り、人類が現実に対する信仰を確立することも、完全に不可能であろう。
そこで神に対してわれわれは、一体どのように考えたらよいのであろうか。近代的な科学思想が教える限りでは、宇宙は常に間断なく無限に拡大していると云われている。そしてもしもわれわれがそのような事実を肯定するならば、無限に拡大しつつあるこの宇宙の外側に、この宇宙とは別の宇宙があることを、想定することは非常に困難であり、したがつて神がこの宇宙の外側における存在であると考えることも非常に困難である。そしてそのよな状況の許では、われわれは神がこの宇宙の内側にあると、考えざるを得ない。しかしその場合、神をこの宇宙の中の一部と考えることは許されない。何故かと云うと、神は全てであり,あらゆる場所に存在し、全能であり、絶対でなければならないからである。
そのように考えて来ると、私は神が従来実際の実情よりも、過小な形で想定されて来たのではないかということを恐れる。そして神の革命的な復活を、真剣に考えるべきではないかと思う。私は、人類が「神は宇宙である、宇宙は神である」という考え方を受け入れるべきであると思う。神と宇宙とは一つの崇高な実在である。神は宇宙であり,宇宙が神である。そしてその神でもあり、宇宙でもあるものが、現実と呼ばれている。
われわれは神の中に住み,宇宙の中に住んでいる。そしてその事実を具体的に実観させてくれるものが、坐禅である。われわれは坐禅をすることによつて、神の中に坐り,宇宙の中に坐り、行いの中に坐り、現実の中に坐る。
以上を通して私は、現在私が考えている仏道を、最も簡潔な最も真実な方法を使つて表現して見た。多くの人々が先ず仏教の概略を理解し、やがて坐禅を通じて、仏道の世界に入つて行くことを、強く願がつている。
(仏教概論終わり)