ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

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2010年7月8日木曜日

第二十七章 教説に関する検証(30頌)

第一頌

「未来派」、「過去派」、「世俗派」、

そして「現実派」と呼ばれる会派等が、様々の教説と呼ばれるもので有る。

様々の稍縁遠いものも、様々の具体的な身近かなものも、永遠の性格を持つて居り、世界の創造を意味して居る。

先行語の末尾に於ける陳述は、何かに依存する事の大切さを主張して居る。


第二頌

私は、様々の教説が、将来は存在し無い事を期待して居る。

現在以外の何の様な教説が、真実として登場し無いとも限らない。

将来存在するで有ろうと私が考える事は,正に終末が開始の段階に在ると云う事で有る。

我々が西方の最果てに住んで居ると云う事で有り、固定した状態の中に集まりつつ有ると云う事で有る。


第三頌

「未来派」、「過去派」、「世俗派」、

と呼ばれる会派は、この世の中には現れて来ない。

何故ならば此れ等の会派は、人間に依つて作り出されたもので有り、

正に現実のものとして、此の世の中に集合して居るものでは無い。


第四頌

現実は正に霊魂と呼ばれ、何処にでも存在しして居る。

自分自身の為にする行為は、目立つ様に特殊化される。

自分自身の為にする行為は、一種の逃避で有り、

其れ等は矢張り誰かに依る身代わりで有る。


第五頌

自分自身の為にする行為は、一種の逃避で有る。

霊魂と呼ばれるものは実在して居無いと云う事で有り、

自分自身の為にする行為も、恐らく霊魂と同じ様に実在して居るものでは無い。

霊魂と呼ばれるものは、矢張り前例と同じ様に、実在して居るものでは決して無い。


第六頌

矢張り自分自身の為にする行為は、霊魂と呼ばれるものと同じでは無い。

具体的なものが、何かを全て水に浸すと云う事は有り得る。

何故ならば、偶々付けた名前が、本人に取つて気に入つた名前で有る処から、

始めから本人に適した名前で有つたのかも知れない。


第七頌

亦別の例として、本人が自分の気に入つたものを離れる傾向が有り、

本心が全く現れて来ない場合が有る。

何故かと云うと或る場合には、把握した内容が本人に全く適して居無い場合が有り、

その場合には、本人以外の人には全く理解出来ない場合も有る。


第八頌

此の様な方法で、全く別のものでは無いものが、採用され無い場合も有れば、

矢張り本人に非常に適合して居ると思われるものが、正に現実的で無い場合も有る。

様々の霊魂は実在では無く、現実に適合して居無い。

此の場所に於けるこれが、絶対に確実な事実として確認出来る事を、実在して居無いと主張する事は,完全に不可能で有る。


第九頌

「未来派」、「過去派」、「世俗派」、

この様に呼ばれて居るものが、姿を現わす事は無い。

何故ならば此れ等の諸会派は、誕生に基ずくもので有り、眼の前に既に現れて居るもので有る。

其れ以外の発展は,此の世の中として存在して居るものでは無い。


第十頌  

何故ならば其の場合、この世の中が別の世界として存在するならば、

拒絶される事が、可能性として有り得る。

現実そのものは正に現実として、全てが一体となつて確立されて居る。

其処に於いては、実際に何かが生まれるので有り、亦死去が有るので有る。


第十一頌

現に活躍中の状態が、切断されると云う事は、常に好ましく無い事とは云え無い。

別のものに依つて作り出されたものも、行為で有る事には変わりが無い。

別のものとして認識される事も、有り得る。

その他の問題と同じ様に、自分自身に執着する場合も有り得る。


第十二頌

「未来派」が躍動中で有ると云う事は、絶対に有り得無い。

何故ならば其処に於いては、悪徳自身が自分自身に固執して居るから。

行いに依つて作り出されたものが、矢張り霊魂として存在して居る可能性が有る。

一緒に存在して居ると云う事は、矢張り決して合理的な事では無い。


第十三頌

此の様な過去の考え方に依存して、様々のものが有り、

自分自身が存在して居無いものでは無いのか、存在して居無いものなのかも、分からない。

両方共正しいのか、両方共は正しく無いのかは、可能性としては両方とも有り得る。

しかし此の場所に於けるこれが、具体化され無いと云う事は、有り得無い。


第十四頌

道路に依存した場合、目的地に到達し無いと云う事は,絶対に有り得ない。

自分自身が到達するで有ろうと云う事態は、自分の眼で見るのと同じ程度に、はつきりして居る。

其の様な事態が、現にこの場所で自分に関して起こら無いと云う可能性は、恐らく有り得無い。

過去に於いて其の様な事が無かつたと云う事は、矢張り同様で有ろう。


第十五頌

現実に神が存在し、現実に人間が存在して居るならば、

其れと同じ様に、永遠も存在する事で有ろう。

併し神は生まれて来ないと云う可能性が高い。

何故かと云うと、永遠性の生まれて来る可能性は、有り得無いから。


第十六頌

神と異なる事が、人間性で有る。

従つて永遠で無いものに関する思想も、存在する事が可能で有る。

神と異なる事が、人間性で有る。

従つて事物に於ける因果関係も、発現する事が可能で有る。


第十七頌

天国も矢張り一つの場所と考えるならば、

其の一つの場所は,矢張り人間に取つても、好ましい場所で有る。

其れは有限で有るかも知れないし、無限で有るかも知れないけれども,

其処に於ける具体的な事実は、何ものからも拘束されて居無い。


第十八頌

其れが有限で有ろうと無限で有ろうと、

事実が有限と無限との両方に跨がつて居る場合には、

完成品に関して、無限で無くても一向に指し支え無い。

無限で無くても一向に支障は無い。


第十九頌

一体何処から何が到来したので有ろう。

一体何が到来し、そして更に何処へ行つたので有ろう。

結局の処、無限の過去からの存在で有る場合には、

生々流転と呼ばれるものは,恐らく現実のものとしては実在して居無いので有ろう。


第二十頌

仮に永遠に存在するものが、全く何処にも実在し無いとするならば、

永遠で無いものは、将来と云えども一体何処に有り得るで有ろう。

永遠に存在するものも、永遠には存在し無いものも、正に二つ一組のもので有る。

二つ一組のものがはつきり有ると同時に、其れが隠されている。


第二十一頌

仮に終末を持つ事が、自由な領域を与えられた事に成るとするならば、

将来の世界は、一体何処に存在するので有ろう。

幸いにも終末を持つ事が、自由な領域を意味するとするならば、

将来の世界は、一体どの様な存在を示して居る事で有ろう。


第二十二頌

様々の集合体が、眼の前の事実として存在を継続して居る。

従つて其れは、ランプの光りの様なもので有る。

其の様な事情から、違つても居無いし同じでも無いので有るけれども、

違つても居無いし同じでも無いと主張する事は、余りにも拘わり過ぎて居る。


第二十三頌

正に待望される以前に、

製造されると云う事を、私は決して願わない。

様々の集合体が、様々の集合体を形作つて居る事は、明々白々とした事実で有るけれども、

其処に開かれた自由な領域は、実は終末の無い領域で有るのかも知れない。


第二十四頌

商品が待望されて居無い以前に、

商品が製造されると云うことを、私は絶対に許さない。

様々の集合体が、様々の集合体を作ると云う事は、明々白々とした目標で有り、

其処に於いては、無限の空間が実際に有るのかも知れない。


第二十五頌

仮令一箇所と云えども、永遠らしく見える処が有る場合には、

其の場合には仮に一箇所と云えども、矢張り永遠と呼ぶ事が出来る。

無限に近いものは、既に無限とも云えるのであつて、

其の様に弾力的な取り扱いは、決して拘わりでは無い。


第二十六頌

何故その様に大きな数量の違いを、容認する事が出来るのかと考えて見ると、

一つのものとして取り扱う事が出来ると云う事は、両者が極めて一箇所に接近して置かれて居るからで有ろう。

一箇所に有るからと云つて、単に一箇所に有ると云わないだけの事である。

単に一箇所に有ると云う事だけに拘わつて居る訳では無い。


第二十七頌

本人の為に行う行為は、矢張り一箇所に有り勝ちなものである。

何故名称だけが一箇所に集まり勝ちなので有ろう。

単に一箇所に有ると云う理由だけで、両者が接近し無いと主張する事は、筋が通らない。

若しもそうで無ければ、其れに反する事実の起こる筈が、絶対に有り得無い。


第二十八頌

終末が有ると云う事は、正に永遠が有ると云うことであり、

其の場合、一切のものに関する完成は、二つの要素を両方とも含むもので有る。

物事の完成に当つては、永遠に近いと云う事が、どうして否定出来よう。

其れは永遠に近いと呼ばれるものでは、決して無い。


第二十九頌

其処に於いては矢張り一切の存在が有る。

自律神経のバランスした状態に似た状態として、永遠の形で管理されて居る。

何処で,何に帰属して、多数の中で何が、そして何から、

物事に対するものの見方は,綜合的に存在する事が出来るので有ろう。


第三十頌

全ての教説は,正義又は道徳と関係した事柄で有る。

現実の宇宙は、間違つた方向に行きつつ有る。

可愛想な状況で有る事も事実として、受け入れられて居る。

私はゴータマ ブツダを、心から尊敬する。


(「中論」の日本語訳を終わつて)

「中論」の日本語訳を終わつて、先ず第一に感ずる事は,我々人類は古代ギリシャ、ローマの時代から数千年に亘つて悩まされ続けて来た、観念論と唯物論と云う二つの哲学の対立を克服して、釈尊が始めて発見された行為の哲学に従い、我々人類が現に生きて居る現在の瞬間に於ける行いこそが、宇宙の全てであると云う哲学に到達する事が出来た。
この事は我々人類が、釈尊の恩恵に依り世界最終の哲学に到達しつつ有る事を意味するのであり、今後人類は何が真実であるかに迷う事無く、毎日坐禅の修行を継続する事により、自律神経を絶えずバランスさせて、人生を送る事が出来る様に成つた。
此の事は人類の歴史が、今迄の人類に於ける文化とは、全く異なつた時代に突入しつつ有る事を示す事実であると思う。                    終わり。

2010年7月6日火曜日

第二十六章 十二種類の原因結果に関する検証(12頌)

第一頌

新しい誕生と身心を整える訓練、

そして無意識では有るけれども、周囲から何等の制約を受けない状態、其れ等の三種類の方法に依つて、

様々のものが手段として形作られて行く。

事態の前進が、行いに依存する事に依つて、具体化して行く。


第二頌

目立たせる為の行為が、全てのものを安定させて行く。

様々のものを綜合的に一箇所に置く事が、正しい在り方であり、行うべき真実である。

現在居る地点に於いて一緒に落ち着かせる事が、正しい措置であり、

眼の前の個々のものは、降り注ぐ水に依つて潤わされる。


第三頌

充分に水分を供給された上で名称と実体とが一つに重なつた、名称でもあり、実体でも有るものが、眼の前に有る。

眼、耳、鼻、舌、身、意と云う六種類の感覚器官が,綜合的な存在である。

六種類の感覚器官が与えられたもので有り、

其れ等の相互関係が、開始される。


第四頌

眼は明らかに実体で有る。そして更に、

其れ等に伴う構成も、正に実体で有る。

名称と実体とが一つに重なつた一体の事物で有る事は、明々白々とした眼の前の事実で有り、

眼の前に見える事実が、綜合的に進行しつつ有る。


第五頌

作る人と、作られるものと、作る作業との三つのものが、一つに結合する事が正に仕事で有る。
 
物質と心の働きと物事を見る能力とで有る。

従つて現実に直接触れると云う事は、寧ろ現実に対する接触から一歩後退する事で有り、

その場合、寧ろ知覚そのものが、実際に行われると云う事で有る。


第六頌

知覚が一種の渇望で有るかどうかは、どうもはつきりとして居ない。

何故かと云うと、知覚の目標は、どうも非常に強く欲求されるものの様で有るから。

強い欲求は、自分自身に対して許容する事が出来る。

四種類の方法として、許容する事が可能である。


第七頌

自分自身の為に何かを取る行為の中にも、現実に存在は有り得る。

自分自身の為に何かを取る事は、兎に角に何かを動かして、仕事を前に進める事で有る。

其の場合、其の外枠は恐らく自分自身の為に行う行為で有ろうから、

何かを緩めると云う事態が、無かつた可能性が有る。


第八頌

五種類の集合体が、現実に存在して居る場合には、

誕生が存在を離れて、前進して行く可能性が有り得る。

老化や死亡や激しい苦しみその他が、非常に激しい状態で有り、

結合して分離する事の出来ない嘆きが、周囲に満ち溢れる。


第九頌

意気消沈した状態の中で、耐え忍ぶ状態が続き、

仮令誕生の場合でも、前進だけの状態が続く。

孤独の状態が此の地点に於いても続き、

苦しみの集合体の中に、全てが綜合的に存在する。


第十頌

生々流転が基礎を成して居り、綜合的な結合を作り上げて居る。

知識の欠除が形成されて居り、その時点からは潤色が行われて居る。

従つて知識の欠除した状態が作られて居り、

知識の形成が、現実を実際に見た実情から、作り上げられて居ない。


第十一頌

自分自身が気付か無い処から、或は自己規制が厳し過ぎる処から、

綜合的に形成された様々の世界が、綜合的な存在で無い場合が有る。

自己規制に関連して実際に無知な場合には、

知識を持つて居る場合も、知識を持つて居ない場合でも同じ様に、存在から遊離して居る。


第十二頌

具体的なものに帰属し、具体的なものに帰属しながら、自己規制に頼る。

具体的なものと具体的なものとは、一定の処迄しか進歩し無い。

激しい苦しみと云う集合体は、専ら自分自身だけに帰属して居る是で有り、

其れと同じ様に拘束された状態で、一緒に行く。