ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

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2007年4月18日水曜日

ドーゲン・サンガにおける日常生活の実情

ドーゲン・サンガに於ける日常生活の実情を考えて見ると、それは「行動的であること」の一語に尽きるかも知れない。何故かというと、われわれが絶えず日常生活の中で、一日二回の坐禅を励行する理由が何かと云うならば、それはわれわれの日常生活を行動的に過ごせるためである。
われわれが毎日坐禅を励行すると、われわれは絶えず自律神経のバランスさせる事が出来るようになる。そしてわれわれが自律神経を常にバランスさせるということは、われわれが常に行動出来る体勢を整えて置くことを意味する。
自律神経の内、交感神経が強い場合には、われわれの頭はよく動き、様々のことを考えるのには適しているけれども、過度に緊張して行動の取れない場合が多い。また逆に副交感神経が強いと、行動を取るだけの緊張感が欠けている処から、何時迄待つても行動が始まらない。つまり自動車の運転に喩えて云うならば、交感神経が強過ぎる時にはブレイキばかりが作動して、アクセルが働かない状態であり、副交感神経が強過ぎる時にはブレイキが効かないから、そんな車には危なくて乗れない。
このような事情から釈尊は、われわれに坐禅の修行を勧められた。毎日頻繁に坐禅をして絶えずわれわれの自律神経をバランスさせて置く事が、われわれの人生を幸福にするための王道である。われわれの交感神経が強過ぎる時には、われわれは神に近い。しかし人間は神である事を期待するべきではない。またわれわれの副交感神経が強過ぎる時には、われわれは動物に近い。しかしわれわれは動物と同じであつてはならない。われわれ人間は、崇高な人間そのものでなければならない。このような観点から、私は佛教哲学の真髄の中には、人間主義の主張が隠されていると思う。仏とは、本当の人間を意味すると理解するべきである。人類の歴史の中で、人間主義の哲学が宗教としての意味を持つ機会は、無かつたように思う。しかし今や人類は佛教哲学を正しく理解する事の依り、人類最後の哲学である人間主義を人類最後の宗教として受け入れる時代が、近ずきつつあるように思う。そしてその根底にあるものは、坐禅の修行である。坐禅をする事に依り、人類は宇宙と一体の境地を体験することが出来るのである。神である宇宙と一体化する事が出来るのである。
このように考えて来た時、われわれは佛教が主張しているさまざまの徳目に対しても、自律神経のバランスという仏道の真実に関する最終の基準を基礎として、仏道が内包しているさまざまの道義的な基準を理解する事が出来る。
例えばその代表として、釈尊が仏道に於ける基本的な徳目として、正法眼蔵の(73)三十七品菩提分法の中で説かれている八正道と、釈尊がその生涯を終わるに当つて、正法眼蔵の最後の巻(95)で説かれている八大人覚との二つを、取り上げて見よう。

(1)八正道

八正道とは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つを指す。

正見(しょうけん)とは、正しいものの見方を意味しており、考えそのものよりも、考えの基礎である考え方が正しいかどうかという問題である。釈尊が主張された現実主義を自分の信念として、確立しているかどうかという問題である。

正思惟(しょうしい)とは、正しい考え方ではなしに、正しい考えのプロセスそのものである。折角考え方の基礎が正しい場合でも、その後の考えにおけるプロセスが間違つておれば、正しい思想は生まれて来ない。したがつて、考えの基礎が大切であると同時に、その後の考えに於けるプロセスも正しくなければならない。

正語(しょうご)とは、正しい言葉の意味である。言葉とはわれわれ自身の思想を表現する音声である。仮に思想の内容が正しい場合でも、それを表現する言葉が間違つておれば、正しい思想も誤つた思想として、人々に伝承されて行く。したがつて思想というものは、その内容が正しいだけではなく、その表現も正しくなければならない。

正業(しようごう)とは、正しい行いである。釈尊の教えは、単なる言葉の説明ではなく、人間の行動を通じて具体化される、現在の瞬間における行いである。仏道の世界においては言語による説明よりも、現実の世界における実行の方が、むしろ大切である。

正命(しようみょう)とは、われわれの正しい日常生活であり、特に生活の基礎を支える職業生活の実体であり、それが道義的に見て正しいか否かが問われている。

正精進(しょうしょうじん)とは、正しい努力である。われわれ人類の生命における通常の長さは、100年を越えることが、極めて稀である。したがつてわれわれが極めて限られた長さの生涯において、何らかの意味を持つた仕事をしようとするならば、われわれはわれわれに与えられた極めて短い生命を空費する事が許されない。したがつてわれわれ人類は、誰でも日常生活において、絶えず努力をしなければならない。

正念(しょうねん)とは、正しい意識を意味する。われわれ人間は、常に日常生活において正しい意識を持つているとは限らない。われわれが偶々強過ぎる交感神経を持つている場合には、正常な状態よりもより緊張した態度を持たない訳にはいかないし、逆に偶々強過ぎる副交感神経を持つて居る場合には、正常な状態よりも寧ろリラツクスし過ぎた状態で、人生を過ごさなければならない。そしてこのような通常のバランスから外れた二つの異常な状態は、何れも本当の人生から外れた人生の空費であり、極めて残念な状態である。

正定(しようじょう)とは、人間が坐禅をしない場合に現れて来る不均衡な状態を避けるために実行する坐禅の修行であつて、人間は毎日坐禅をする事によつて、自律神経のバランスを保つことが出来、本当の人間として生きることが出来る。

このように釈尊の教えは、常に現実の生活において、自律神経をバランスさせると云う極めて実践的な努力であり、そのような日常生活における努力が、人類に真に幸福な人生を与える事を約束した教えである。したがつてドーゲン・サンガの会員における日常生活も、毎日の坐禅に頼り、絶えず自律神経をバランスさせた生活でなければならない。

(2)八大人覚

八大人覚とは、釈尊が亡くなる直前に説いたと伝えられている遺教経(ゆいきょうぎょう)の中で説かれている教えであり、八大人覚とは少欲、知足、楽寂静、勤精進、不忘念、修禅定、修智慧、不戯論の八つを云う。

少欲(しょうよく)とは、欲望の少ない事を意味するけれども、無欲という言葉を使つていない理由は、恐らく佛教では欲望のない処には、生存の可能性がないと考えているからであろう。少欲という言葉の中には、人間にとつて欲望の存在は不可欠であるけれども、欲望の過大は避けるべきであるという主張が隠されていると解される。

知足(ちそく)という言葉の意味は、人間の欲望は無限に拡大する性質を持つているけれども、実際問題としては一定段階で満足するだけの訓練をして置かないと、処置に困る可能性があり得ることを指摘している点で、佛教が内包している現実的な判断を評価している面が見受けられる。

楽寂静(らくじゃくじょう)とは、寂しくて静かな境地を楽しむの意味であつて、人間における本来の本質的な楽しみは、自律神経がバランスして、多少の孤独感と静けさとが共存している状態であることが、主張されている。

勤精進(ごんしょうじん)とは、一所懸命に努力するの意味であつて、限りある人生を有意義に過ごす為には、寸暇を惜しんで努力する必要のあることが述べられている。人間の一生は多少の長短はあるにしても、必ずその終末の到来を予測して置かなければならない。したがつてそのような意味で、人間の一生について云うならば、努力なしに楽しい人生はあり得ない。

不忘念(ふもうねん)とは、正しい意識を亡失しないの意味であつて、自律神経がバランスしている為に、はつきりした意識が絶えず心の中に存続している状態を云う。

修禅定(しゅぜんじょう)とは、坐禅の修行を実行して行くの意味であつて、仏道修行の中心である坐禅の修行を、毎日確実に実行して行くことを意味する。仏道の世界に於いては、坐禅の修行の実践が無い限り、仏道の世界はあり得ないのであつて、単なる思考の世界や単なる感覚的な刺激の世界の中には、行為を基準とした現実の仏道が存在し得ない実情を、われわれの心の中に明記するべきである。

修智慧(しゅちえ)とは、単なる脳細胞の働きによる思考の働きではなく、自律神経がバランスしている時に現れて来る直感的な判断を意味している。したがつて修智慧とは所謂般若の智慧であることを、忘れてはならない。

不戯論(ふけろん)とは、遊戯的な議論をしないとの意味であり、議論が現実の問題と密切に関連していない場合には、議論そのものが実際に意味のある内容になつていない。そしてそのように実際的でない議論を繰り返すような努力は、実質的には何の意味もないことが主張されている。

このように八正道をとつて見ても、八大人覚をとつて見ても、仏道における道義は、観念論における論議のように、単に頭の中だけで考えられた口先だけの議論でもなければ、唯物論における議論のように、最初から道義そのものを否定する道義不在の議論でもなく、飽くまでも現在の瞬間において現実の行いと密切に関連した、行いそのものである。したがつて仏道における道義は、われわれの日常生活における現実の事実として、極めて具体的に検討して行かなければならないのであるが、そのような態度が正に本当の意味における道義との対峙であつて、ドーゲン・サンガの会員たる者は、その日常生活の上においても、そのように極めて実践的な問題として、道義に関する問題を考えて行かなければならない。。

2007年4月3日火曜日

ドーゲン・サンガにおける人間関係

人間関係という言葉は私の記憶では、第二次世界大戦以後に急に日本で使い始められた言葉のように記憶しているけれども、現在では一般にその意味がはつきり しているように思われるので、人間社会の中で人間同士が交渉を持つ際の、行動の仕方という意味で使うこととする。したがつてドーゲン・サンガの中において も、ドーゲン・サンガの会員同士の間や対社会との接渉においても、当然配慮しなければならない人間同士の関係として考えて見たい。
この問題に関しては昔から儒教の道徳あり,日本古来の道徳あり、佛教道徳あり、欧米の道徳ありと云つた形で、具体的な多数の実例があるのであるが、その反面あまりにも複雑過ぎて結論が多岐に分かれ、実際問題として統一的な結論を得る事が非常に難しい。
し かし私は若い時から、正法眼蔵、第45の「菩提薩埵四摂法」(ぼだいさつたししょうぼう)と云う章の教えに従つて生きて来た。勿論仏道の世界は、名誉と利 得とに支配された世俗の世界とは別の世界であるから、世俗の世界から見た場合、私の生涯が広範な世俗の世界に於ける価値観と対比して、何人にも満足を与え ることの出来るような結果であつたか否かは断定する事が出来ない。しかし私は道元禅師の示された真実が世界全体を支配する真実と確信して、人生を生きて来た極めて愚直な人間で あつたから、そのような生き方について何らの後悔も持つていない。
では正法眼蔵の菩提薩埵四摂法においてどのような教えが説かれているかというと、それは次
の四つすなわち、1)布施、2)愛語、3)利行、4)同事、の四つの項目であるが、用語が可成り古い時代の言葉が使われて居る処から、その解説を必要とすると思う。
1)布施(ふせ)
布 施に関して道元禅師は、欲張らない事であると云われている。そして欲張らないということは、自分が大切にしているものを無理に他人に与えよということを意 味している訳ではない。しかし自分にとつてそう必要でないものを、他の人が欲しがつている場合には、惜しみなく与えよという意味である。それと同時に自分 自身の利益を考えて、その利益の為の見返りとして、他人に贈りものを与えたりしないということでもある。そして道元禅師は、「全世界を支配するような権力 者といえども、他人に対して正しい教えを与える場合には、それを惜しんだり何らかの他の目的の為に与えたりする事をしない」と云われており、したがつてた つた一つの言葉、或はたつた一つの詩でもよいから与えるべきであると云われている。そして自分自身が生活の為に働く事も布施であり、産業に従事することも 布施であると云われている。したがつて自分自身の為に働くことも布施であり、家族の為に働くことも布施であると云われている。
2)愛語(あいご)
愛 語とは愛情のある言葉という意味であり、誰に対しても愛情のある言葉を掛けるべきであると云われている。また別の言葉で表現すれば、乱暴な言葉や悪い言葉 を口にしないと云うことである。したがつて若しも佛教徒が他人に対して乱暴な言葉や悪い言葉を述べた場合には、その人は完全に佛教徒としての実質を失つて 居ると判断して差し支えない。道元禅師は憎しみを持つた敵を降参させたり、優れた人間同士が和解出来るのも、愛情のある言葉が基本であると云われており、 愛情のある言葉が、宇宙を逆転させるだけの力を持つて居る事を勉強するべきであると云われている。
3)利行(りぎょう)
利行とは身分の高 い立場の人に対しても、身分の低い立場の人に対しても、相手の人に対して、その人の為に役立つような仕事をしてやるべきであるという趣旨である。そして本 当の宇宙の見えていない人は、他人の利益を優先させると、自分自身の利益が犠牲になつてしまうと考えて仕舞うけれども、実情はそうではない。中国の役人が 植民地の長官であつた場合、植民地の人の来客があつた場合、入浴中であろうと食事中であろうとそれを中断して、面接に応じた例があつたと云われて居る。そ れは唯々人の為に役立ちたいという努力をした例である。したがつて敵に対しても味方に対しても同じように利益を与えるべきであると、道元禅師は云われて居る。自分に 対しても他人に対しても同じように、利益を与えるべきであるという趣旨である。ただ一途に人類の愚劣を救うのでなければ、地球上に平和は来ないと云う意味であ る。
4)同事(どうじ)
道元禅師は同事という言葉は、自分自身とも食い違うことがなく、他人とも食い違うことがないという意味である云われており、人間 の世界とも同調し、それ以外の世界とも同調することに依つて、主観的な世界と客観的な世界とが一つに重なつた、現実の世界が現れて来ると云つておられる。 外界の世界を完全に自分自身の世界と一致させた場合に、自分自身を完全に外界の世界と一致させる事が出来るという基本的な理論もあるかも知れないとも云われており、海は流 れ込んで来る水を嫌わないし、水は海に流れ込んで行くことを厭がらないから、海があり水があるのである。山は山を嫌わないから、山が高く聳えているの である。したがつて全ての人々が、優しい態度や優しい表情で、一切のものに立ち向かうべきであるという趣旨を述べておられる。
此のように布施も愛語も利行も同 事も、道元禅師は極めて理論的なそして具体的な立場から観察し、しかもそれだけに留まらず極めて実践的な現在の瞬間における実情として説かれており、それ が正にわれわれが現に今住んでいる現実世界の真の姿であるとして捉えておられるから、この正法眼蔵における菩提薩埵四摂法は、われわれが日常生活の中で実際に適用 した場合、驚くような効果を発輝する。したがつてそのような事情から、釈尊の教えは何のような地域においても何のような時代においても、人間関係の原則として的 確な効用を発輝する事実がある事を確認し、ドーゲン・サンガの人間関係における基準とすべきであると思う。このように考えて来ると、仏道が説く倫理道徳は、他の哲学や宗教や道徳の倫理道徳と非常に違うという印象を与えるけれども、それは普通の倫理道徳が、観念論や唯物論を基準にした理論に基ずいているのに対して、佛道の場合は釈尊の説かれた教えが、観念論や唯物論とは異なる実在論を基準としていることから来る結果であつて、21世紀に到来するであろうと思われる佛教的実在論が,今日の倫理道徳と比較して、非常に大きな思想的且つ実質的な変動を齎すように思われる。