ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

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2006年1月30日月曜日

現実(1)宇宙に行き亘つている理性

其処で最終的に現実とは何かという問題が登場するのであるが、仏道においては、坐禅における体験から、現実は原則として言葉では表現出来ないという解釈をとる。正法眼蔵の中にも「恁麼(いんも)」(29)という巻があるが、この[恁麼(いんも)」という言葉も、「あれ」とか「それ」とかという意味を表わす中国の俗語であり、言葉で表すことの出来ない何かを意味する。これは通常理解されているように、神秘的な不可知の世界を指すものではなく、明々白々として眼の前に展開している現実そのものが、極めて包括的な内容を含んでいるために、言葉では表現することの困難な実情を示す言葉として使われたと理解する事が出来る。
したがつて現実そのものも、四諦の教えにしたがつて、四段階の考え方によつて説明することとなるが、これに関しては,古代インドの2世紀から3世紀に掛けて活躍した竜樹尊者の「中論」の中に、極めて明快な解説がある。私は[中論」の第一章を[確かな事実に関する検証」と訳したが,表題のpratyayaは本来、信仰とか信仰内容の意味であつて、[中論」が取り上げている中心課題としての現実に関する検証である。
そして先ず第一頌では主観的な存在と客観的な存在とは,共に実在ではないという主張が行われているが、そのことは主観的な存在、すなわち頭の中で考えられた思想も、感覚器官における刺激としての興奮も、共に実在ではないという観点から、観念論哲学と唯物論哲学とが共に否定されている。それでは何も無いのかということを考えて見ると、そうではなく第二頌では四つのものの実在が肯定されている。その四つとは、理性と、客観的な世界と、現在の瞬間と、神にも似た現実である。つまり竜樹尊者は、この世の中に実在するものとして、このわれわれが生きている宇宙の中に満ち溢れている理性と客観世界と現在の瞬間と神のような現実との実在を認めている。そして大胆に第五番目のものはないと云い切つている。
そこでまず竜樹尊者が最初の実在として捉えている理性であるが、現にわれわれがその中に生きている宇宙そのものが、理性と呼ばれる理論によつて貫かれているという主張である。その点ではAの人が考えた場合でも、一足す一は二であり、Bの人が考えた場合でも、一足す一は二である。このような理性的な秩序が、宇宙全体に漲つて居るという主張が、仏教思想としての最初の考え方として観取される。
古代ギリシャにおいてもプラトンの唱えた観念論には、同じような主張が含まれているが、仏教の場合には、単に観念論的な捉え方だけでなしに、外界の世界の実在を認め、行いの舞台としての現在の瞬間を認め、さらにそれらの綜合としての現実を認めた処に、仏教思想としての特徴が認められる。

2006年1月29日日曜日

行いの哲学(4)坐禅

行いの哲学における最後の段階で、仏道の中心である坐禅に到達した。しかし此処で大切な事は、坐禅の説明は、決して坐禅そのものではないということである。坐禅そのものは、われわれが自分自身の足を組み、手を組んで坐禅の状態に入つて行く行いの世界であつて、文字を頼りにしながら,坐禅の説明を読むことと、坐禅を実際にやる事とは、全く次元の違う世界の出来事であることを、特にはつきりと頭に置いて頂きたい。
坐禅に関する具体的なやり方の説明や修行の実際につぃては、この仏教哲学の説明が終わつてから、稿を改めて出来るだけ丁寧に説明する予定にしているので、それまでお待ち頂きたい。
仏道は欧米の世界では極めて珍しい実践の哲学である。実践があつて始めて具体化する世界である。したがつて仏道は坐禅がなければ、実現できない。
しかしそれと同時に仏道は、坐禅の実修さえあるならば、われわれは直ちにそれを具体化することの出来る性質のものである。したがつて道元禅師も「正法眼蔵弁道話」の中で、「この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし、はなてばてにみてり、一多のきはならんや、かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。」と云われている。その意味は、「この宇宙の原則は、人々個人個人の上に充分に具わつている処ではあるけれども、まだ実行していない場合には表面に出て来ないし、実際に体験して見ないとどんなものかが分からない。それに拘わる事をやめると、手の平一杯に溢れて来て、一つであるとか多数であるとかという相対的な比較の問題ではなく、口を使つて言葉で説明することになると、云いたい事が次々と縦横無尽に出て来て無限に続いて行く。」と云われている。

2006年1月27日金曜日

行いの哲学(3)刹那生滅の道理

正法眼蔵の中に「有時(うじ)」(11)という巻がある。「有」は存在の意味であり、[時」は時間の意味である。したがつて有時という言葉は,現実の世界においては、何らかの事物の存在は、必ず時間の存在と同時に現れて来る現象であつて、事物の存在は時間の存在がなければ存在し得ないし,時間がなければ一切の存在はあり得ないという主張である。正法眼蔵の中の表現では、「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」となつており、現実の世界においては,時間と存在とは必ず同時に存在し,存在と時間とが別個の存在として実在することは、絶対にあり得ないという主張である。
この考え方は、今日では決して仏教だけの考え方ではない。事実、ドイツの哲学者であるハイデツカーは、「時間と存在」という本を書いているけれども、その内容は正に、現実の世界においては時間と存在とは常に一体であつて、切り離して考えることが不可能であることを主張している。
佛道における現実の時間は、過去、現在、未来というふうに、長く横に繋がつた線のようなものではなく、現在の時点における極めて短い刹那と呼ばれる瞬間である。そこで正法眼蔵の「発菩提心」の巻では、「おほよそ發心得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずば、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず。」と説き、『一般的に云うならば、真理を知りたいという気持ちを起こしたり、真実を得たりする事実は,何れもこの世の中が瞬間瞬間に生まれては消え、生まれては消えしているからこそ、起こり得ることである。もしもこの世の中が生まれては消え、生まれては消えしているような、瞬間瞬間の存在でないならば、前の瞬間における悪が、何時まで経つても消え去ることが出来ない。そして前の瞬間における悪がまだ立ち去つていない場合には、後の瞬間における善が、現実の世界に現れて来ることが出来ない。」と。これが現在の瞬間という考え方を基礎に置いた
仏道における現実主義である。
したがつて道元禅師は、同じ「発菩提心」の数行後の箇所で、次のように述べている。「しかあれども凡夫かつて覚知せず。覚知せざるがゆえに、菩提心をおこさず。」と云われ,さらに「佛法をしらず、佛法を信ぜざるものは、刹那生滅の道理を信ぜざるなり。もし如来の正法眼蔵涅槃妙心をあきらむるがごときは、かならずこの刹那生滅の道理を信ずるなり。」と云われている。その意味は「然し乍ら仏道を知らない一般の人々は、(この刹那生滅の道理を)知らず、そして(刹那生滅の道理の道理を)信じない処から、真実を知りたいという気持ちを起こさないのである。」と云われ,さらに「釈尊の教えを知らず、釈尊の教えを信じない者は,刹那生滅の教えを信じないものである。しかし釈尊のお説きになつた正しい宇宙秩序の眼目の所在、静かで落ち着いた素晴らし心境を、はつきりと知つているような人々は、例外なしにこの刹那生滅の道理を信ずるのである。」といわれている。
現実の世界は、過去、現在、未来と云うように長く横に繋がつた時間系列としてあるのではなく、極めて短い途切れ途切れの現在の瞬間としてあるのである。
しかもこの刹那生滅の道理が、数千年に亘る人類の歴史の中で、今日まで解決を見ることのなかつた、人間が自由であるか、束縛されているかという問題について、明快な回答を与えている。人間は例外なしに、途切れ途切れの現在の瞬間の中に生きている。したがつてその現在の瞬間における現実の行いの在り方は、真珠の玉がカミソリの刃のように幅の狭い現在の瞬間の中で、生まれては消え、生まれては消えしているのと同じ状態であるから、そのような状態の中にある人間の現在の瞬間における在り方は、過去、現在、未来という長い時間系列に縛られておりながら、現在の瞬間において自由であり得るという解説が、成り立つのである。

2006年1月25日水曜日

行いの哲学(2)時は今、場所は此処

現実の行いが何時現れるかと云えば、それは例外なしに今である。仏教の考え方では、現実の行いが実行される瞬間は、例外なしに現実の流れにおける現在の瞬間である。過去は既に過ぎ去つた時間に対する追憶であり、未来はまだ到来していない時間にたいする想像である。したがつてこの世の中において、現実に実在する唯一の時間は、行いの実行される現在の瞬間しかあり得ない。勿論過去、現在,未来に亘る観念として時間は、われわれの頭脳の中にあり得る。しかしわれわれの現実の行いが実際に行われる現在の瞬間だけが、現実の時間である。
それと同じように、では現実の行いは何処で行われるかを考えて見ると,これもまた現在自分が実際にいるこの場所でしかない。抽象的に考えるならば、日本もあれば、ヨーロツパもあり、アメリカ・カナダもあれば、南米もあり、北欧もあれば、アフリカもあり、東南アジアもあれば、中国、豪州、ニユージーランド等もある。しかし今自分自身が何処にいるかを考えてみると、それは誰にとつても、「此処にいる」であり,それが現実における最も正しい答えである。
したがつて中国の仏道指導者である洞山悟本大師も、「吾、常に此に於いて切なり」といわれた。「自分は何時も此処において、一所懸命である」と云われた。
 

2006年1月21日土曜日

行いの哲学(1)理論と行いとの次元的違い

仏教哲学におけるもつとも重大な特徴の一つは、理論と行いとの明快な分離である。一般的に行為を哲学上の議論として取り上げる場合には、行いも一種の概念として取り上げられ、理知的な世界における理論の問題として取り上げられることが、行為に関する哲学上の一般的な取り上げ方である。しかし仏教においては、理知の世界と行いの世界との間に、極めて明快な次元的な差異を認める処から、通常の哲学とは根本的に異なつた立場から、行いの問題が考察される。そのことを極めて明快な例え話を通じて表現した説話が、正法眼蔵の「諸悪莫作」(10)の中の説話である。
中国の有名な詩人である白居易が、ある時鳥果道林禅師に対して質問した。「釈尊の教えの根本的な趣旨は、一体どういうことでしょうか」と。道林禅師いう。『さまざまの悪いことをせず,さまざまの善いことをすることだ」と。居易云う。「その程度のことであるならば、三歳の赤子でも云うことが出来そうに思えますが。」道林禅師いう。「三歳の赤子が、仮に云うことが出来たとしても、80歳の老人になつても、実行が出来ない」と。この物語の中に、行いに関する理論と実行との次元的な相違が、隠されている。そしてこの理論と行いとの間に,実在している次元的な違いが分つて来ないと、現実の行いが分つてこないし、理論の世界と行いの世界との間にわだかまつている大きな断層に、気付くことが無い。

2006年1月19日木曜日

因果の理法(4)実践の偉大さ

因果の理法についても、その最終段階においては現実の実践に結び付いて行くのであるから、正法眼蔵においても因果関係の最終段階である「大修行」(76)の巻では「深信因果」の巻と理解の仕方が異なつている。「深信因果」の巻と「大修行」の巻とでは、共にその冒頭において、百丈禅師と野狐との間に於ける問答が語られ、「深信因果」の巻においては、野狐である老僧の述べた不落因果は,因果関係には落ちないという意味で,因果関係の否定に繋がるけれども、不昧因果は『因果に昧(くら)からざれ」の意味であつて,因果に関する肯定の意味であるから正しいと云う解説が、はつきりと付け加えられている。しかし「大修行」の巻では行為が実際に行われる現在の瞬間において、一切のものが実行されている。そこにおいては、現在の瞬間における行いがあるだけのことであるから、「不落因果」と「不昧因果」との概念上の区別も消えて、ただ現在の瞬間に於ける単純な事実が眼の前にあるということになる。原因と結果という理論的な問題も、現在の瞬間に於ける行いという立場で問題を考える時,何時の間にか『不落因果」と「不昧因果」との相違が消えて、単純な現在の瞬間に帰つて行く。

2006年1月18日水曜日

因果の理法(3)三時の業

仏道の世界では、この世の中の一切の物事に関連して、100%狂いのない原因結果の関係が、付随しているという主張をしているけれども、実際問題として果たしてその通りであるかどうかという問題に関連して、疑問が湧く。そしてその様な疑問が、正法眼蔵自身の中でも、「三時の業」(84)の巻において取り上げられている。第19祖鳩摩羅多尊者の弟子である者夜多尊者が、ある時師匠に質問していうには、自分の両親は釈尊の教えを充分に信じているにも拘らず、病気勝ちであり、隣の屠殺を職業とする家柄の人間は、健康にも恵まれ、動作も調和が取れている。そのように屠殺を職業とする人間が幸せで、仏道を信じている自分の家が、何故不幸せなのかという質問をした。ところが師匠の鳩摩羅多尊者が云われるには、「どうして疑問を持つ必要があろう。原因がありそれに伴つて結果が現れる関係には,三種類の時間のずれがある。原因があつて直ぐ結果が現れる場合と、原因があつて暫く時間が経つてから結果が現れる場合と、原因があつてから非常に長い時間が経つてから結果が現れる場合との違いがある。したがつて親切な人が早死にをしたたり、乱暴な人が長生きをしたり、間違つた人が幸福に見えたり、正しい人が不幸であつたりするために、原因結果の関係がないと考えたり、罪悪と幸福との間には関係がないと考えたりするけれども、それらの人々は原因と結果との関係が、物に影があり音に響きがあるのと同じように、一分一厘の狂いもなく、無限に近い長い時間が経過しても、原因結果の関係が消えて亡くなるということはない。」と。者夜多尊者はこの言葉を聞いて、即座に疑問を解決したと説かれている。
したがつて原因結果の関係については,原因と結果との間に全く時間的なずれにない場合、多少時間的なずれのある場合、非常に長い時間的なずれのある場合とのあることを知つて、原因結果の関係には一分一厘の狂いもないことを知らなければならない。このことも仏道における原因結果の正確さを知る点で、極めて重要な意味を持つて居る。

2006年1月15日日曜日

因果の理法(2)悪因の実例

私は駒沢大学の宗学大会で正法眼蔵の九十五巻全巻を、苦、集、滅、道、の四つの基準に従つて分類した記憶があるが、その際に、「因果の理法」については、苦諦の立場としては「深信因果」(89)、集諦の立場としては「四禅比丘」(90)、滅諦の立場としては「三時の業」(84)、道諦の立場としては「大修行」(76)の巻を選んだ。「深信因果」については前回に述べたが、集諦の立場に該当する「四禅比丘」に付いて述べて見ると、因果関係に関連して、最も人生にとつて障害になると考えられるものが、列記されている。この「四禅比丘」の巻は、道元禅師が亡くなつた際,未定稿として残されたものであるから、完成されたものと見ることは出来ないがけれども、道元禅師が因果関係に関連して、どのような原因を最も警戒すべきものとして、考えておられたかが解る。
1)ある僧侶が坐禅における四つの境地を経過しただけであつたにも拘らず、それを人生における四つの段階を経過したと誤解し、死去に当つてそれに伴う情景が現れなかつた為に,釈尊に騙されたと感じた。
2)優婆鞠多尊者の弟子がが坐禅における四つの境地を経過しただけであつたにも拘らず,人生における四つの段階を経過したと思い込み、女性と間違いを犯そうとし、気が付いて見たら相手が師匠自身であつた。
3)釈尊の教えを勉強するには、その現れて来る順序を知る必要がある。
4)釈尊の教えと孔子、老子、荘子の教えと完全に別であることを知らなければならない。
5)釈尊の教えが、存在するとか存在しないとかという議論を離れた唯一の真実であることを知らなければならない。
道元禅師は,われわれが不幸に出会う最大の原因を、仏教の立場から眺めた思想上の誤りの中に見出し、そのような実例を上げておられるということは、仏教に関連して基本思想が如何に大切であるかということを、物語つて居るという点で、注目に値する。

2006年1月13日金曜日

因果の理法(1)深く因果を信ずる。

前回では釈尊の教えに関連して、先ず四諦の教えについて述べたのであるが,四諦の教えは佛教哲学の基礎理論に関する説明であるから、苦諦の領域に関する議論と考える事が出来る。しかし釈尊の教えは、すべてが苦諦,集諦、滅諦、道諦の四つの段階に応じて議論される処に、一つの特徴があるから、次の集諦の考え方を基準にしてどのような考え方が生まれて来るかというと、それは原因結果の考え方である。欧米の文化においては、ルネツサンス以降科学的な思想が急速に発達し、人類の文化を根本的に逆転させるような威力を発揮したけれども、その原因が何にあつたかを考えて見ると,それは原因結果の関係に関する100%の信仰である。科学の世界においては、この世の中の一切を実質的な集合体と考え,その実質的な集合体の中では、すべての領域に亘つて原因結果の関係が存在する事を主張している。
しかし仏教においては,単に物質的な世界だけでなく、物心両面に亘つて因果関係の存在を主張する。
例えば道元禅師の書かれた正法眼蔵の「深信因果」の巻においては、次のように述べられている。
「佛法参学には,第一因果をあきらむるなり。因果を撥無するがごときは、おそらくは猛利の邪見をおこして、断善根とならんことを。おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは堕し、修善のものはのぼる、毫釐もたがはざるなり。」と。
これを現代語に訳して見ると、「釈尊の教えを勉強するに当つては,一番最初に原因結果の関係を明らめるべきである。もしも因果関係を否定するようなことがあると、おそらくは利益を激しく求める間違つた考え方を起こして、よい行いを断ち切ることになるであろう。一般的に云うならば、原因結果の基本原則は明々白々としていて、個人的な利害関係とは無関係である。悪いことをしたものは堕落し、善いことをしたものは向上する点では、1000分の1、100分の1の狂いもない。」ということになる。したがつて仏道の世界では、原因結果の関係について、単に自然科学のような物質の世界だけではなく、物の世界と心の世界との両方を含む宇宙全体に、原因結果の関係が広がつていることを主張している。しかもその正確度に関しても、1000分の1、100分の1程度の誤差も認めることをしていない。このことも仏道の立場から、因果関係を考える場合の特徴であつて、仏道の立場では一分、1厘の誤差をも認めない厳密さで、原因結果の関係の存在を確信しているのである。

2006年1月10日火曜日

四諦の教え(4)欧米の文化と四諦の教え

今日、世界全体の文化の中で、どの国の文化が最も優れているかを考えてみると,やはりそれは欧米諸国の文化ではないかと考えられる。勿論、世界各国の文化にはそれぞれの特徴があり、優劣を付け難い面があるけれども,エジプトやメソポタミヤ地方やインド等で発生した文化が, やがて中近東を経て,古代ギリシャやローマに伝わり、ローマ帝国の強大な武力を背景として,ヨーロツパ全土に広がつて行つた経緯には必然的なものが感じられる。そしてその流れが中近東で発生したキリスト教信仰と合流して、カソリツク信仰の隆盛を招き、農耕生産を中心とする中世社会の禁欲的な社会構造を通じて,文化の維持に大きな貢献をしたことも、ヨーロツパ文化の一つの發展段階として,評価するべきであると思う。
しかしそのような精神主義的な流れが、ルネツサンスと呼ばれる科学的な実証主義の時代に移行することにより、欧米の文化は今度は科学的な合理主義を根幹として、偉大な科学主義の時代を建設する事に成功した。したがつて欧米の文化が、宗教的な精神主義の文化と実証主義的な科学を基礎とした文化とに対立する結果となつてはいるけれども、逆にそのような対立が文化を前進させる原動力となるような面もあつて,現に欧米の文化が他の諸文化、例えば東南アジアの文化とかイスラム文化とかに対して、多少進んでいると云わざるを得ない面があるのではないかと思われる。
しかしこの事が何を意味するかと云うならば,欧米の文化が精神主義的な禁欲主義と物質主義的な放漫主義との対立に縛られて、苦しんでいるという事を、如実に示すものである。しかしこの全く相反する二つの哲学は、同じく頭で問題を考える主知主義の世界における哲学であるから、この侭では到底和解に到達する事の出来ない完全に矛盾した主張の対立である。そこで登場する考え方が四諦の教えである。四諦の教えに関しては、苦諦と集諦という主知主義的な考え方と、滅諦と道諦という実践主義的な考え方との間に、完全に次元的な断絶がある。そして四諦の教えは仏教徒に対して,主知主義の領域を離れて、実践主義の領域に入つて行く事を要求しているのである。道元禅師の書かれた「普勧坐禅儀」の中に、「入頭の邊量に逍遥すといえども、ほとんど出身の活路をきけつす」という言葉があるけれども、これは「僅かに頭だけを問題の端の方に入れて、悠然と歩いているようには見えるけれども、身体全体が生き生きとした行為の世界に抜け出した境地が欠けている」の意味である。四諦の教えに関する一つの大きな意味は、欧米に於ける主知主義的な思想や感受作用の領域から抜け出して、行いの世界に入つて行けという趣旨である。そしてそのようにわれわれが、思想や感受作用の領域から抜け出して,行いの世界に入つて行くことが、仏教哲学の最も重要な拠点である。
仏道修行者が一日一日の日常生活に於いて,自分の行いが仏道の示す宇宙の原則と一致することが、貴重な意味を持つ。このようにして仏道修行者が、自分の行いと宇宙の原則とを一致させる処に、われわれの人生に於ける価値があり、そのような努力によつて、一切の人々が、幸福な人生を送る事が出来ると同時に、一切の人々が思想や感受作用の束縛を離れて、現実の世界に生きる事が出来るようになる。

2006年1月8日日曜日

四諦の教え(3)四諦の実体

四諦の教えは、単に仏教の教えに付随した理論というだけの意味ではなく、われわれの日常生活に伴う現実的な事実の問題でもある。そこでそのような日常生活の問題として、ある人が自分自身で新しい事業を始める場合を予想しながら,苦、集。滅、道の四つの哲学が、どのような形で展開して行くかを考えて見よう。
(苦諦の段階)どのような事業を始める場合でも、先ずその事業に関する構想が必要である。しかも世間一般で考えるような平凡な構想であれば、誰でも考える処であり実行の出来る処ではあるけれども、その場合には競争者が多数現れ,成功の可能性は極めて低い。したがつて新しく事業を始める立場にある人々が、事業の成否を考えて苦慮する状態は、決して容易なものではないであろう。新事業に於ける構想の努力そのものが、苦しみそのものであると云えないこともない。
(集諦の立場)しかし構想の善し悪しだけを基準にして事業を始めようとすれば、それは非常に危険な話である。何故かと云うと、われわれが現にその中に住んでいる具体的な世界は、単に頭の中だけで考えた想像の世界ではないから、その事を念頭において、物質的な側面を計数的に考えてみることが、不可欠である。処が人間社会というものは皮肉なもので、想像力豊かな楽観的な人々は,得てして計数的な検討の面で弱い。逆に計数的な検討に強い実質的な考え方の人は,夢のような壮大な構想に弱い。したがつて人が人生において成功を収めるためには、努力して弱点を克服することが必要な面もあるように思われる。ともかくも新しい事業を始めるに当たつては、差し当たりどの程度の資金調達が可能であるとか、工場建設のための用地が手に入るかとか,交通の便は良いかとか,労働力が確保出来るかとか,水の便が悪くないか等さまざまの問題を考えなければならない。
(滅諦の立場)しかし構想ができ,具体的に物質的な条件が整つたとしても、それだけでは事業というものは、絶対に動かない。では何がいるかというと、実行である。滅諦の中の滅という字には、自己規制の意味があり,行いの意味がある。四諦の教えが何故、世界の文明史の中で大きな意味を持つ事が出来るのかを考えて見ると、それは釈尊の天才的な頭脳と体験とから、われわれが現にその中に生きている現実の世界は,頭の中で考えた思考の産物でもなければ,感覚器官の捉えた外界からの刺激でもなく、われわれ自身の心と体とを一つに纏めた行いが、実行された現在の瞬間に於いて現れる現実の世界である。したがつてわれわれは四諦の教えに関する哲学的な構成に関して、苦諦,集諦の世界と滅諦、道諦との間には、次元の異なつた断層があることに気が付かなければならない。事業に関連しても,単に構想と検討だけがあつて実行がなければ、事業の存在は地球上には全くあり得ないのである。そこで事業の開始以来、毎日の活動が始まる。そして毎日の活動の中では,事前に予想することの出来なかつたさまざまの事実が次々に起こる。そのように全く予想する事の出来なかつた事実を次々に解決しながら、前に進んでいく努力が事業である。
(道諦の立場)しかもわれわれ仏教徒は、この世の中に於ける宇宙秩序の実在を信じているのであるから,われわれの事業に於ける行動も,当然宇宙の秩序と合致しなければ成らないのであつて、われわれの日々における事業活動も例外ではない。そのような形でわれわれの日常生活における営利行為と宇宙の秩序に従う行いと合一があり、人生の喜びがある。営利そのものが人生の目的であるという事実は,宇宙の中には存在し得ないという事が、われわれが生きている宇宙の中の実情のようである。。

2006年1月5日木曜日

四諦の教え(2)「現成公案」の第一節

正法眼蔵の「現成公案」における第一節の文章は,次の通りである。
「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり,生あり死あり、諸仏あり衆生あり。(1)
 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく,生なく滅なし。(2)
 仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに,生滅あり、迷悟あり、生仏あり。(3)
 しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、艸は棄嫌におふるのみなり。(4)」
の四つの文章である。しかもこの四つの文章が、それぞれ物事の在り方について、全く立場の異なつた四つの考え方を比較対照していることが解る。すなわち(1)は「この世の中のさまざまの物事(諸法)を、釈尊の教え(仏法)を基準にして考えるという立場をとると、物事の在り方が言葉,つまり観念として現れて来て,迷いと悟りとか,実行と行いとか、生まれる事と死ぬ事とか、真実を得た人々と、まだ真実の分つて居ない一般の大衆との違いなどが分つて来る。つまり言葉を使い観念を使つて物事を区別する、観念の世界があることを述べている。しかし(2)の段階では、(1)の段階とは全く別に、観念の世界を離れてこの世の中を単に物質の世界(万法)として、主観を離れた(われにあらざる)純客観的な世界としての立場から眺めるならば、一様に物質の世界として、迷いと悟りの区別も無ければ、真実を得た人々と一般大衆との区別もなく,誕生も無ければ消滅も無い。これはわれわれがこの世の中を、原子,分子の寄り集まりとして、完全に物質的な世界として眺めるならば、迷いと悟りとの区別もなく、真実を得た人々と真実を得ていない一般大衆との区別もなく、誕生もなければ消滅もない。そしてこの(1)と(2)とは、欧米の哲学においては極めてはつきりと理解されている観念論と唯物論とを意味しているから、それほど理解する事の難しい考え方ではないと思う。
しかし(3)の立場は仏道の立場であり、世界でも他に類を見ない立場であるから、その理解に当つては可成り慎重でなければならない。何故かと云うと観念論と唯物論とは、一方の観念論は人間の心を基準にして哲学が考えられ、他方の唯物論は物質を基礎にして哲学が考えられているけれども、何れも人間の理知に頼つて考えられた哲学であるから、脳細胞の働きに頼つて理解するならば、必ずしも理解の不可能な哲学ではない。しかし(3)の行いの哲学および(4)の道義の哲学に関しては、単に人間の思考から生まれた哲学では無く,人間の行いを主体とする実践の哲学であるから、(1)と(2)の理知の哲学と(3)と(4)の実践の哲学との間には、非常に大きな次元的な断層ある事を,覚悟して置かなければならない。
そこで(3)においては、「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、」という前提をおいて、実践の世界における現実の生存や消滅が実在し、現実の迷いや悟りが実在し、現実の一般大衆や現実の真実を得られた人々の実在することが強調されている。
そして(4)の段階では、哲学的な論議を離れて、現実そのものが極めて実践的な描写で表現されている。それが「しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、艸は棄嫌のおふるのみなり。」という言葉になつている。現実は現実でしかないという意味である。
しかも道元禅師はこのような四段階の論法を,殆ど例外なしに正法眼蔵の全巻に亘つて使つておられる。そしてそのような複雑な論法が、何故使われたかを考えて見ると、それは例外なしに現実そのものが,極めて複雑な内容を含んでいるのであつて,事実上,現実を主題とする仏教哲学は、四諦の教えを活用するのでなければ,到底説く事の不可能な哲学であると云える。
なお欧米の哲学においても、弁証法と云う哲学に関する思考方法があり、特にヘーゲルの弁証法とマルクスの弁証法とが有名であるが、何処が違うかと云うならば,欧米の弁証法においては,正−反ー合という三段階の論法が説かれているのに対して,仏教哲学の弁証法においては、正ー反−合−実という四段階の弁証法が説かれている。恐らく現実を最終の結論とする仏教哲学においては、最終段階の哲学として現実そのものを説く必要があつたからであろう。
原始経典の記述として、釈尊がその最初の説法として四諦の教えを説こうとした際に、あまりにも難解であると感じて、四諦の教えの説法を躊躇されたと伝えられているけれども,21世紀の今日でさえ、その真意を知る事の難しい四諦の教えに関連して、それが説法として残されたことに就いては,非常に大きな感謝を感ぜざるをえない。

2006年1月3日火曜日

四諦の教え(1)苦諦、集諦、滅諦、道諦

釈尊の教えが、この世の中の真実は、われわれの頭の中で作り出された思想の中にあるのではなく、またわれわれの感覚器官を通じて受け入れている外界からの刺激にあるのでもなく、真実とは現にわれわれが現在の瞬間において実行している行いと、それを取り巻く宇宙の秩序とが、一つに重なつた現実の世界そのものであると云う思想を説いたであるが,釈尊の教えはその他に,われわれが普段予想もしなかつたような様々の優れた思想を含んでいる。その代表的なものの一つが、四諦の教えである。
四諦の教えとは、苦諦,集諦,滅諦、道諦の四つを云い、その内容は苦しみの哲学,集合の哲学,自己規制の哲学、そして道義の哲学を意味する。しかしこの四諦の教えには、釈尊が亡くなつてから百年程経つた時期に成立した小乗仏教の時代には、既に通俗的な解説が行われ、小乗経典の中にも記載されている処から、かなり長期間に亘り四諦の教えに関する正しい理解の仕方として、取り扱われて来た時代がかなり続いた。それはどのような解釈であるかと云うと、(1)この世の中は苦しみの世界である。(2)苦しみの原因は欲望の存在にある。(3)したがつて欲望を滅却すれば、(4)道義が確立されるという理解の仕方であつた。しかし私はこの解説には、全く承服出来なかつた。先ずこの世の中が果たして苦しみの世界であるかどうかに付いても、即直に疑問が残つた。また苦しみの原因が欲望にあると云う理解についても、何の根拠もなしに何故そのように独断的な主張が、可能なのかを疑つた。そして人間にとつて果たして欲望を滅却する能力が、与えられているのかを疑い、そのような意味での道義に関連しても、最後の道義的な主張が、その前段階における解説を離れて、あまりにも唐突に説かれているという印象を受けた。その点では小乗時代の仏教における四諦の解説については、全く納得が行かなかつたため、私は四諦の理解の為には、可成り長年月の努力を必要とした。
しかしその後、道元禅師の書かれた正法眼蔵を読む事によつて、四諦に関する全く新しい理解が開かれて来た。七十五巻本の正法眼蔵に於いてはその第一章、九十五巻本に於いては第三章に、「現成公案」という巻があるが、その冒頭に書かれた四つの文章から成り立つている一節が、四諦そのものの教えを説いているのではないかと云う事に、気付いた事に始まる。「現成公案」の冒頭の文章とは、紙面の関係で次回に掲げる文章である。

2006年1月1日日曜日

真理の探究(5)二種類のさとり

「さとり」に関連しては昔から、頓悟と漸悟との対立がある。頓悟という考え方は、坐禅をしているとある日突然、「さとり」が開かれるという考え方である。頓という字は早いという意味である。漸悟というのはかなり長い時間をかけて、少しずつ悟つて行くという考え方である。しかし道元禅師のお考えでは,頓悟と漸悟と両方あるというお考えであつたと考えられる。何故かと云うというと道元禅師は正法眼蔵の中で、修証一等という言葉を使われて、坐禅をすること(修)は、証(さとる)ことと全く同じ一つの事実であると云つておられるからである。これは後に述べる行いの哲学に関する重要な原則であるから、道元禅師が頓悟の思想をお持ちになつていたことには、疑問の余地がない。しかし同じ正法眼蔵の中で、霊雲志勤禅師やじょう州従諗禅師の例を上げられながら、このお二人の大先輩が[さとり」を開かれるのに、それぞれ三十年の歳月と必要とされたと記述されているから、道元禅師の場合はそれぞれ頓悟と漸悟とを両方お認めになつて居たと考えられる。